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メタフィクションが内包する「超リアリティ」

2017年03月09日 【小説を書く】

虚構世界に潜む圧倒的リアリティ

読書が好きな人や、作家になることを志す人ならば、「メタフィクション」という小説のジャンルをきっとご存じのことでしょう。メタフィクションとは、実際にはあり得ない設定や展開で物語を構築し、現実と虚構の関係性を問いかけるごとき小説です。ときに作者自身が物語のなかにひょいと現れ、ときに小説のなかに登場人物の描くまた別の小説が紡がれて……といった具合に、読者は作家の創り出す、前衛芸術さながらの世界の道なき道を進む心地を味わうことになります。現実では起こり得ないことが起きるメタフィクション空間。徹頭徹尾つくり込まれたそんな世界のなかでしかし、ふと、原風景を見るようなえもいわれぬ懐かしさに打たれたり、強い既視感を覚えたりすることがあります。それは、メタフィクションであるからこそ際立つ、鮮烈にして生々しい“真実性”のためなのです。

現代アメリカ文学の旗手の「リアル小説」論

ポール・オースターは、メタフィクション構造の独自世界を描く小説で読者を魅了するアメリカ人作家です。米文学研究者で翻訳家の柴田元幸氏が「エレガントな前衛作家」と呼ぶオースターは、あるインタビューに答え、小説にリアリティを盛り込む際の陥穽(かんせい)について次のように語っています。

いわゆるリアルな小説の慣例にどっぷりと漬かり過ぎて、自分自身のリアリティの感覚が歪んでしまっている。この手のリアルな小説では、すべてがのっぺりと均されて特殊性というものを奪われた上に、あからさまな原因と結果の世界に箱詰めされている。
(『現代作家ガイド1 ポール・オースター』彩流社/2013年)

つまり、あなた方がふだん何の気なしに眺めている目の前の世界や、シンプルな発想で思い描くものごとの因果なんてものが、「リアル」と呼べるかは疑わしいですよ――ということでしょうか。では、彼の言う「リアリティ」とは具体的にどんなものでしょう。リアリティを創出する要素の筆頭に「優れた映像性」が挙げられます。オースター作品『最後の物たちの国で』で描かれるのは、入国したら脱出は不可能な、食べるものも住む場所も失われる、ひたすら死へ向かうしかないディストピア。現世離れしているはずのこの世界の風景を、オースターは、空気や光を五感で捉えるように鮮やかに浮かび上がらせ、読み手はまるで自分がそこに存在するかのような感覚を覚えます。

街を歩くときは、一度に一歩ずつ進むように気をつけないといけません。光は小さな塊を成して降ってきて、地上近くまで来ると物の色を変えてしまいます。影のなかにはときおり絵が見えます。雨が降ると、どっちへ進むべきか、見きわめはいっそう困難になります。そして陽が出た日は、目をすぼめているよう注意しないといけません。光は時におそろしく強くなりますから。
(ポール・オースター『最後の物たちの国で』白水社/1994年)

作家自身の呼吸が目覚ましいリアル感を生む

ポール・オースターの小説には、叔父の蔵書を何千冊も預かった話とか、父の遺産で生活に追われず執筆に専念できるようになった体験譚とか、トーマス・エジソン研究所で働いていた父に対する人種差別を知りエジソンへの敬愛の念が地に落ちた話とか、オースター自身の人生のリアルも、もちろんそこかしこに取り込まれています。言うまでもなくそうした実際感覚は、どのような小説にとっても重要であることに違いないのですが、それをもって極めつけのリアルかといえば答えは「NO」なのです。映像性や細部のリアリティに支えられ、不可思議な“偶然”の輪が繋げられていくメタフィクションのなかの圧倒的なリアルな感覚――それは、登場人物の呼吸が自分のそれと重なっていくかのような、一体的なリアル感だからです。その前では、実体験などひとつの挿話に過ぎないのかもしれません。

われわれは主人公の立場にわが身を置き、自分自身のことを理解できるのだから主人公のことだって理解できるはずだという思いを抱く。だが、それは欺瞞である。おそらくわれわれは自分自身のために存在しているだろうし、ときには自分が誰なのか、一瞬垣間見えることさえある。だが結局のところ何ひとつ確信できはしない。(略)自分という存在がいかに一貫性を欠いているか、ますます痛切に思い知るのだ。人と人とを隔てる壁を乗りこえ、他人の中に入っていける人間などいはしない。だがそれは単に、自分自身に到達できる人間などいないからなのだ。
(ポール・オースター『鍵のかかった部屋』白水社/1997年)

『鍵のかかった部屋』は、主人公の青年批評家が謎めいた一通の手紙から失踪した親友の行方を追う物語。未知の世界を彷徨するような、悪魔的な目論みが網目のごとく張り巡らされた物語にあって、主人公の恐怖と焦燥の喘ぎがリアルに迫ってくるのは、そこに作家自身の実像が投影されているからです。自分が何者なのかわからないという激しいジレンマから発する焦燥感、追い詰められながらも探し求めずにはいられない――。そんな正体のわからないものとは、オースター自身のなかに、そして私たち自身のなかにも存在する「ドッペルゲンガー」なのかもしれません。

「偶発性」が呼ぶ“リアル”を超えたリアリティ

小説家として認められる前、オースターは詩人になることを志していました。ヴァガボンドのようにフランスに渡り、できる仕事は何でもこなしながら詩学し、帰国後は翻訳や批評を請け負って糊口を凌ぎ、しかし生活は立ち行かず最初の結婚はついに破綻します。そんな四面楚歌の状況下で足掻くなか、幾ばくかの父の遺産を受け取ってようやく活路を見出したのでした。

私が語りたいのは予期しえぬことの存在、圧倒的に困惑に満ちた人間の経験。この瞬間から次の瞬間の間にも何が起こるかわからない。それまで抱いていた世界に対する確信が一瞬にして砕け散る。哲学的な言い方をすれば、偶発性の力ということ。
(『現代作家ガイド1 ポール・オースター』彩流社/2013年)

人間の人生というのは、無数の偶発的要素によって決められるのです。
(ポール・オースター『ムーン・パレス』新潮社/1997年)

「事実は小説よりも奇なり」と表現したのは詩人のバイロンですが、巷にも“ウソのようなホントの話”の体験者が多いように、ときに人生には、生半可な想像力など及ばぬ“現実離れした現実”が待ち受けているものです。小説を書こうとするあなた、くれぐれも「リアリティ」の意味をはき違えてはいけません。いかにも現実に起こりそうなことがリアリティなのではありません。“偶然”という“必然”が無数にちりばめられ、誰のものとも似ない、たったひとりの人間の生を誕生させるものごとの連なりこそが、この世のリアリティであるはずなのです。小説という虚構の世界においてもまた然り。あり得ない人生、あり得ない物語に無上のリアリティを求めていけば、作家になりたいあなたにもまた、必然が織り成す恍惚とした未来が訪れるやもしれません。

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