天皇即位と超古代史
「古史古伝」で読み解く王権論
原田実
『竹内文書』『上記』『ヲシテ文献』『富士宮下文書』『九鬼文書』『カタカムナ文献』『大成経』『物部文書』『東日流外三郡誌』『喚起泉達録』『甲斐古蹟考』等では古代天皇や即位儀礼をどう描いているか? 神代文字は時間を操作する。秘儀・即位灌頂はなぜ近代化で失われたのか? 「田布施システム」の虚妄を読み解く。三種の神器とは何か――十種神宝から雛形論まで。
本文一部抜粋
三種の神器とは何か―起源から雛形論まで
二種の天璽という説が流布した平安時代
天皇即位に際しては八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊勾玉の「三種の神器」継承の儀が執り行なわれる。
記紀によると、八咫鏡はアマテラスが弟スサノオの荒ぶるさまを嘆いて天岩戸に籠もったとき、高天原の神々が岩戸を開いてアマテラスを外に引き出す儀式のために、イシゴリドメ(『古事記』では伊斯許理度売命、『日本書紀』では石凝姥命もしくは石凝戸邊命と表記)という鏡作りの神に作らせたものだという。また、『古事記』によると、八尺瓊勾玉もやはりこの天岩戸開きの儀式に際して、玉作りの神であるタマノオヤ(玉祖命と表記)が作ったものとされる。
天叢雲剣は、アマテラスが天岩戸を出た後、高天原を追われたスサノオが出雲で退治したヤマタノオロチの尾から出た剣とされる。スサノオは、その剣を高天原の姉アマテラスに献上した。
『古事記』では、ニニギが天降りする際、祖母であるアマテラスが八咫鏡・天叢雲剣・八尺瓊勾玉を授け、「この鏡は我が御魂と同じ」と言って、天上のアマテラスに仕えるかのようにこの鏡を祀り続けよ、と命じたとある。
ところが『日本書紀』の天孫降臨のくだりの本文には、三種の神器の伝授に関する記載がない。『日本書紀』は「一書に曰く」という形で、本文以外に天孫降臨に関する6通りの異伝を記しているが、その中で「三種の宝物」(「三種の神器」ではない)の伝授を明記しているのは1つだけ、鏡のみの伝授を伝えるのが1つ、あとの4つは本文同様、神器(宝物)の伝授を記していないのである。
『延喜式』の大殿祭(大嘗祭などの前後や皇居移転の際に宮殿を清める祭り)の祝詞には皇御孫之命(ニニギ)が降臨する様子を語るくだりがあるが、そこではニニギは「天津璽の剣鏡」(天の神であることを示す剣と鏡)を奉じながら降臨したとある。
また、平安時代の神官・斎部広成が大同2年(807)に著した『古語拾遺』では、天孫降臨に際して皇孫(ニニギ)に授けられたのは、「天璽」である「八咫鏡・草薙剣の二種の神宝」だとある。
『延喜式』『古語拾遺』からわかるのは、平安時代には、ニニギが奉じたのは三種の神器ではなく鏡と剣という二種の天璽(天御璽)だという説が流布していたということである。
皇位の象徴としての三種の神器の神話的起源は、一応、記紀の天孫降臨のくだりに求めることができる。しかし、その解釈には平安時代になってもまだぶれがあったことが、この二種の天璽の伝承からうかがうことができる。
ところで『日本書紀』は神武東征において、神武とニギハヤヒは互いに持っていた天羽々矢(高天原の鳥の羽を用いた矢)と步靫(矢を入れる容器)を示して共に天神の子であることを確かめ合った、とある。
神武天皇が記紀の天孫降臨神話に出てくる三種の神器(三種の宝物)を引き継いでいたなら、あるいは、ニギハヤヒが『先代旧事本紀』などで語られるように十種の神宝を持っていたなら、それぞれ高天原出身者に対して同族としての正統性を示すのに、矢よりも説得力がある証拠になりそうなものだ。
それが出てこないということは、神武東征神話が成立した時点では、まだ三種の神器(三種の宝物)や十種の神宝に関する伝承は形成されていなかった、ということを示すとしてよいだろう。
文献から見る限り、行為の象徴としての「三種の神器」が定着するのは、武家時代に入ってからのことである。
なお、『日本書紀』によると、八咫鏡は天皇と同床(天皇の住まいと同じ宮殿に置く)では霊威力が強すぎるため、第10代・崇神天皇6年(前92年)に宮中から出し、さらに第11代・垂仁天皇25年(前5年)に伊勢に祭った。これが伊勢神宮の内宮だという。
また、天叢雲剣も八咫鏡とともに伊勢に鎮座していたが、第12代・景行天皇の御代、ヤマトタケルの東方遠征に際してヤマトタケルに預けられ(その道中で新たに「草薙剣」の名を与えられる)、さらにその東方遠征からの帰路、尾張に安置された。これが熱田神宮(現・愛知県名古屋市熱田区)の起源だという。
したがって、それらの伝承を信じるなら、現在、宮中にあるとされる三種の神器のうち、八咫鏡と草薙剣は形代(レプリカ)で、本物は伊勢神宮と熱田神宮にあることになる(さらにいえば、宮中の八咫鏡は平安時代に繰り返された御所炎上の度に失われ、草薙剣は源氏と平家の壇ノ浦合戦で海底に没したとされるので、宮中にあるのはレプリカのそのまたレプリカということになる)。
ちなみに『平家物語』では、草薙剣とともに海底に身を投じたという安徳天皇(1178〜1185、在位1180〜1185)はヤマタノオロチの生まれ変わりであり、彼の入水は、皇室に奪われた剣を取り返して海中に潜むためであった、という説が語られている。
また、『平家物語』の異本である『源平盛衰記』では、安徳天皇がヤマタノオロチの生まれ変わりだったとしながらも、草薙剣はもともとアマテラスが伊吹山(滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹連山の主峰)を巡行中に落としたのを八岐大蛇が拾ったもので、三種の神器は、みな本来はアマテラスのものだった、という主張がなされている。
なお、八咫鏡と草薙剣の本物がそれぞれ伊勢神宮と熱田神宮にあるという件について、第二次大戦末期、昭和天皇が本土決戦を避けてポツダム宣言を受諾したのは、連合国軍に本州太平洋岸の三重県・愛知県に上陸された場合、本物の八咫鏡や草薙剣が奪われる危険があったからだという(宮内庁『昭和天皇実録』第9巻、2016年)。
宮中の三種の神器については、天皇の代替わりでも、箱に納めたままで伝授されるしきたりとなっており、実際にどのような形状かは不明瞭である(『平家物語』など、中世以降の文献には、中を覗いた天皇がいた、という伝承も記されているが、煙が出て中身を確認できなかった、などのオチがついている)。
『富士宮下文書』では、先述の通り、三種の大御宝として、鏡・剣の次が勾玉ではなく、富士山を象った宝司の御霊なるものだったとしている。これは旧家でのお祝い事などの際、家の床の間に置かれた蓬莱の島台という飾り物をモデルにしていると思われる。このような改変ができるのも、三種の神器の実際の姿が不明確だからである。
「古代の墓の副葬品=神器の起源」説は粗雑な議論
さて、三種の神器の起源について、文献上はともかく考古学的には弥生時代にまでさかのぼりうる、という説がある。
三種の神器は八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉だが、これは結局、鏡と剣(刀)と玉の3点セットである。そして、この3点セットは古代の墓の副葬品にもよく見られる組み合わせである。
たとえば近畿地方の古墳では、奈良県桜井市の桜井茶臼山古墳や、やはり桜井市の池ノ内古墳群第5号墳、大阪府岸和田市の和泉黄金塚古墳などは、この3点セットのまとまった出土で知られている(いずれも古墳時代前期)。
一方、この3点セットは、北部九州の弥生時代の墓にもよく見られるものである。特に福岡県糸島市の平原遺跡、前原市の三雲南小路遺跡、春日市の須玖岡本遺跡など弥生時代の王墓といわれる遺跡では、この3点セットの出土が顕著である。
この3点のうち、勾玉は縄文時代までさかのぼるものだが、鏡と剣(刀)は弥生時代に中国大陸から朝鮮半島経由でもたらされ、まず北部九州に定着した、ものである。したがってこの3点セットそのものが北部九州で生まれたのは間違いないだろう。さらにそれが近畿地方の古墳に現れるということは、北部九州でこの3点セットを祭器としていた勢力が、近畿地方に入って新たな王国を築いたことを示しているという。
これは三種の神器をもって高天原から天降った皇室の祖先が、九州を経由して大和に入ったという記紀神話の筋立てそのままである。つまり、天孫降臨や神武東征の神話の成立には、北部九州での国家形成とその東方への移動という史実の背景があった、というわけである。
三種の神器北部九州起源説は、医学・病理学専攻ながら福岡県内の多くの遺跡を発掘して九州考古学の祖と言われた中山平次郎(1871〜1956)によって最初に説かれた。それが哲学者の和辻哲郎(1889〜1960、『新稿・日本古代文化』1951年)や東洋史学の植村清二(1901〜1987、『神武天皇』1957年)によって継承された。
さらに古代史ブームのときには、中山平次郎の直弟子である在野の考古学者・原田大六(1917〜1985)や安本美典氏(『日本神話120の謎 三種の神器が語る古代世界』2006年、他)、古田武彦(1926〜2015、『古代は輝いていたⅠ『風土記』にいた卑弥呼』1984年、他)によって再評価されたものである。
特に、原田大六は、八咫鏡の実物は平原遺跡から出土した直径46センチ以上の内行花文八葉鏡(中国・漢代の様式を借りた国産鏡)、八尺瓊勾玉の実物はやはり平原遺跡から出土した琥珀の首飾りで、その遺跡の被葬者はアマテラス(と後世神話化された巫女王)その人だったと論じている(原田大六『実在した神話』1966年、『銅鐸への挑戦』全5巻、1980年)。
しかし、現在の考古学の主流では、弥生時代・古墳時代の墓に三種の神器を求めるような考え方はなされていない。それは、遺跡へのイデオロギー的な意味づけよりも、遺跡自体が示す実情に基づいた研究が重視されるようになったからである。
実際には北部九州と近畿地方の古代の墓で共通する副葬品は鏡・剣(刀)・玉だけではない。腕輪などの貝製品やそれを模したと思われる石製品(鍬型石・車輪石・石釧など)、斧・鉇などの鉄製工具、鉄鏃や銅鏃などの矢尻など、様々な副葬品に北部九州と近畿との共通性を見ることができる。
その中で鏡・剣(刀)・玉だけをことさらに取り出すのは、恣意的な史料操作にすぎない。その3点を特に重視するような議論に説得力を覚えるのは、聞く側に「三種の神器」をありがたがるような先入観があればこそである。
また、この3点だけに限っても、出土状況に違いがある。剣(刀)や玉は主に遺体とともに棺の中に納められたと思われる状況で出土するのに対し、鏡は棺に納められたものだけでなく、棺の周囲に無造作に置かれたような状態で出土する例が見られる。
つまり、鏡については剣(刀)や玉と同様の意義で副葬される(おそらくは生前からの愛用品といった意味)他に、別の意義を与えられて副葬される例もあったと考えられる(たとえば遺体を守るための魔除けなど)。
さらにいえば、皇位の象徴としての三種の神器が代々伝承されることに意義があるのに対し、副葬品は遺体とともに埋められてしまうものである。たまたま似た物があるからといって、後者を前者の起源として考えるのは粗雑な議論と言うべきだろう。
なお、近畿地方の古墳の副葬品に九州の影響が強いこと自体は確かだが、一方で埴輪の原型ともいうべき特殊器台と呼ばれる古墳祭祀用の土器は、吉備(現在の岡山県全域と広島県東部)を中心とする瀬戸内海地方の影響が顕著である。また古墳文化形成に大きな役割を果たしたと思われる纏向遺跡からは、瀬戸内海方面や東海地方など広域から持ち込まれた土器が出土している。
古墳文化は特定の外来勢力が近畿地方に入って主導したものというより、日本列島の広域にまたがり、近畿地方を結節点とする壮大な文化的交流の中から生じたものと考えるべきだろう(九州から近畿地方における弥生時代から古墳時代への交代期の絶対年代は、研究者によってその推定に違いがある。だが、そのいずれを採っても西暦3世紀にほぼ収まるものとみてよい)。
このような視点に立つなら、古墳文化の形成ひいては近畿地方における王権の確立について、ことさらに北部九州勢力の移動を言い立てる必要はないだろう。
皇位継承に「三種の神器」が必要とした北畠親房
ところで、南北朝の分裂は三種の神器の解釈における一大画期となった。その画期を示す文献こそ、南朝の忠臣・北畠親房(1293〜1354)が著した『神皇正統記』(1339年頃執筆)である。
世界のどの国を見ても、王の正統性を保証するのはまず血統である。また、民のために働いたという「徳」を示すことに成功すれば、血統の不利を補って(場合によっては血統上の正統性さえなくとも)その王位の正統性を主張することができる。
ところが血統において南朝と北朝は同格である。また、「徳」においても当時の世の乱れは自らの権力保持とその血統による皇位独占にこだわった後醍醐天皇にも大きな責任があるわけで、北朝に対しその優位を唱えることはできない。
そこで北畠親房が正統性の根拠として強調したのは「三種の神器」の所在だった。「三種の神器」とは皇室の宝である八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣(草薙剣)の3つである。
記紀神話では、このうち、八咫鏡と八尺瓊勾玉は皇祖神にして太陽神たるアマテラスが弟スサノオの暴虐に悩んで天の岩戸に籠もったとき、彼女をそこから引き出すための祭りのために作られたものとされる。また、天叢雲剣は地上に追放されたスサノオが八岐大蛇という怪物を退治したとき、その尾の中から取り出したもので、スサノオは姉との和解のためにこれを高天原(天上)に献上したものとされている。
そして、この3つの宝は、アマテラスの孫ニニギが地上に降りるとき(天孫降臨)、アマテラスによってニニギに与えられたという。
北畠親房はそれを踏まえて、皇位継承にはその「三種の神器」の継承が伴わなければならないとした。
ただし記紀には「三種の神器」という記述はない。『日本書紀』にある歴代天皇の即位でも継承された宝物は「剣鏡」あるいは「神璽」などと表現されることが多く、皇位継承には「三種の神器」がそろわなければならないという観念は、親房によって初めて体系化された感さえある。
記紀にはニニギとは別に天下った神として、初代・神武天皇に降伏し、物部氏の祖となったニギハヤヒの名を伝える。北畠親房は、『先代旧事本紀』という本にニギハヤヒがニニギの兄であるというのを引き、「(アマテラスが三種の神器を)瓊々杵尊にも授ましまししに、饒速日尊は是をえ給はず。しかれば日嗣の神にはましまさぬなるべし」と述べる。つまり、兄として順位では上位であるはずのニギハヤヒも、三種の神器を授からなかったからこそ皇位(日嗣の位)につながる神にはなれなかったという意味だ。
また、後鳥羽天皇(1180〜1239、在位1183〜1198)は源平争乱の最中に三種の神器を欠いたまま即位したが、北畠親房は彼について、神の加護を得られなかったために「天意つつがましまさず」と断じている。ちなみに後鳥羽は退位後に院政を敷いたが、承久3年(1221)に幕府に反乱を起こして敗れ(承久の乱)、流刑先の隠岐で崩御した。
北畠親房によると、後醍醐天皇は足利勢に追われて吉野に逃げる際に三種の神器を伴っていた。だから三種の神器が南朝側にある限り、南朝側の正統性は揺るぎないというわけだ。
さらに親房は、三種の神器に象徴的な解釈を加え、八咫鏡は正直の本源(ありのままの姿を示すこと)で日の精、草薙剣は智慧の本源(理に従って剣で断ち切るように決断すること)で星の精、八尺瓊勾玉は慈悲の本源(勾玉が示すように柔和な心を持つこと)で月の精である、とした。しかし、親房の論法は裏を返せば、北朝に三種の神器を押さえられたら、その正統性を認めざるをえなくなる体のものである。
南北朝合一から半世紀以上を経た文安3年(1446)頃、京の勧勝寺という寺院にいた行誉という学僧が『壒嚢鈔』という類書(事典)をまとめた。その中の「三種神器」に関する説明は『神皇正統紀』に依拠したものになっている。北畠親房の正統論は北朝の「正統」が定まった頃にはすでに「常識」となっていたことがうかがえる。
北畠親房が三種の神器に与えた象徴的解釈は、室町時代の学者にして、摂政関白太政大臣を務めた政治家でもある一条兼良(1402〜1481)の『日本書紀纂疏』(1455〜57年頃成立)を経て、吉田兼倶(1435〜1511)の『日本書紀神代巻抄』にも引き継がれている(二藤京「中世における『三種神器』論の一端」『高崎経済大学論集』第49巻第2号、2006年、所収)。
ちなみに吉田兼倶は自らの教説を唯一神道と称し、朝廷や幕府に取り入って全国の神社・神官の位階や神職を定める権限を得た怪人物で、三種の神器の象徴的解釈は『神皇正統記』自体だけでなく、兼倶の教説を通しても神社界に大きな影響を与えることになった。
かくして、北畠親房の、三種の神器の存在を根拠とする正統論は、後世においても大きな影響を持ち続けた。
「北畠親房が神皇正統記を著して南朝の正統の天子なる所以を明かにしなければならなかつたことは、南朝が正統の天子であることに既に疑があつたからである。彼が編み出した神器の所在によつて皇位の正閏を決する理論は、学問的に見て頗るインチキなものであるが、意外の成功を収めて、明治の憲法学者までその説に敬服せしめた」(滝川政二郎『日本歴史解禁』1950年)
今上陛下のご即位に際し、三種の神器継承の儀式が行なわれることについて、当時、しばしばRPGを思い出したという声が聞かれた(ちなみに『ドラゴンクエスト』第1作発売は昭和61年=1986)。三種の神器は神話に淵源するものである。RPGのストーリーが神話によく見られるパターンをなぞって作られたものである以上、その中に出てくる聖なるアイテムの授受が、三種の神器の継承に似てくるのは必然ともいえよう。
南北朝の争いは、その聖なるアイテムの争奪戦だったわけであった。そして、三種の神器に聖性を認める人々が奪い合い、さらにその物語が伝わることで、それらの聖性は後世の人々にも強く印象付けられることになったわけである。
皇道三学で三種の神器の秘儀を学べる?
ところで「三種の神器」の実態が不明瞭であるという事実と、中世日本で生じた三種の神器の象徴的解釈とを踏まえて、近代日本で成立した神道教学に皇道三学というものがある。
皇道三学の創始者は、明治期の神道家・大石凝真素美(本名・望月大輔、1832〜1913)である。大石凝真素美の皇道三学は、その高弟で『神聖遺訓として見たる古事記』(1924)の著者・水野満年(1873〜1965)、やはり真素美の高弟で全30巻の大著『古事記大講』(1927〜1933)を書いた水谷清(1873〜1938)に受け継がれた。
また、大本教祖(教団内での肩書きは教主補)出口王仁三郎(上田喜三郎、1871〜1948)も大石凝真素美や水谷清から皇道三学を学んでおり、後述する「日本は世界の雛形」説などを大本の教義に取り入れている。
皇道三学とは、具体的には、算木(易占いに用いる木製で直方体の計算器具)に似た木片を組み合わせて過去や未来の現象を読み解く「天津金木学」、『古事記』や『万葉集』などの言霊(言葉の音声に秘められた霊力)によって世界の隠された意味を探る「天津祝詞学」(大日本言霊学)、筮竹(易占いに用いる竹ひご)に似たメドハギというものを使って天地万象のすべてを知ることができるという「天津菅曽学」という3つの占いの体系である。
皇道三学のそれぞれの名は、大祓詞の「天津金木を本打ち切り末打ち断ちて千座の置座に置足はして天津菅麻を本刈り断ち末刈り切りて八針に取裂きて天津祝詞の太祝詞事を宣れ」という、古来、難解で意味不明ともいわれてきた箇所に出てくる単語から採っている。だが、本項との関連で重要なのは、皇道三学が三種の神器とも対応していると説かれていたことである。すなわち、「天津金木学」は八尺瓊勾玉の秘儀、「天津祝詞学」は八咫鏡の秘儀、「天津菅曽学」は草薙剣の秘儀と対応しており、皇道三学を習得することは三種の神器に隠された秘密を明らかにすることでもある、というのである。
つまり、皇位の象徴である三種の神器の秘儀を誰もが学べる形にしたのが皇道三学だというわけで、その主張が真実なら、その教学は、まさに「皇道」を称するにふさわしいものということになるだろう。
余談ながら、この皇道三学を用いたなら、日本列島と地球上の他の国土との対応は明らかであり、日本が世界の雛形として神に準備された国であることも明確にできるという。そして、それはまた日本の天皇が全世界の天皇として君臨すべき存在であることも示している、というわけである。
最近のWeb上でも、オカルト的珍説としてしばしば話題になる日本と世界との国土の対応は、もともとは、このような理路から説かれたものだった。
ちなみに水谷清によって示された国土の対応は次の通りである。
四国‐オーストラリア大陸
北海道‐北米大陸
九州‐アフリカ大陸
本州‐ユーラシア大陸
壱岐・対馬‐イギリス
瀬戸内海‐地中海
関門海峡‐ジブラルタル海峡
大阪湾‐黒海
児島半島‐バルカン半島
紀伊半島‐アラビア半島
木曾川‐チグリス・ユーフラテス川
伊勢湾‐ペルシャ湾
琵琶湖‐カスピ海
諏訪湖‐アラル海
猪苗代湖‐バイカル湖
天竜川‐インダス川
富士山‐ヒマラヤ山脈
御前崎‐ケープ・コモリン(インド亜大陸最南端)
富士川‐ガンジス川
伊豆半島‐マレー半島
伊豆七島‐インドネシア
利根川‐メコン川
阿武隈川‐長江
北上川‐黄河
男鹿半島‐朝鮮半島
最上川‐エニセイ河
信濃川‐オビ川
富山湾‐白海
能登半島‐スカンジナビア半島
隠岐‐アイスランド
台湾‐南米大陸(この説が唱えられた当時、台湾は日本領だった)
荒唐無稽な話ではあるが、これも中世以来進められてきた三種の神器の象徴的解釈の延長線上に現れたものであることも否定できないのである。