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茶々と秀吉あらすじ
 天正十一(一五八三)年、柴田勝家の居城北之庄城は、羽柴秀吉の軍勢によって落城した。於茶々の養父勝家と実母於市は自刃。於茶々たち三姉妹は生き延びて秀吉の庇護を受けることになった。於茶々十六歳のときである。
 於茶々が十八になって、石田三成の先導により大坂城に輿入れした。秀吉には、正室の於祢の他、京極龍子などたくさんの側室がいたがその一人となるべく迎え入れられたのである。秀吉は四十九歳になっていた。
 於茶々は妹の於初や於江の面倒を見ながら浅井家再興を願い続ける。それには、北之庄城を脱出するとき、浅井長政の遺児(喜八郎)が生きていることを知らされていたからでもある。喜八郎は於茶々の希望であったのだ。しかし、於茶々は乳母大蔵の息子大野治長に喜八郎探索を極秘に命じたものの、秀吉の知るところとなってしまう。
 秀吉に抱かれた於茶々は、いつか秀吉を待ち焦がれるようになっていき、棄(鶴丸)を身籠もった。出産のため“淀城”を秀吉からプレゼントされた於茶々は、その城の主に収まり寵愛をほしいままにする。
 天正十八(一五九〇)年、すでに関白太政大臣となり豊臣の姓をいただいていた秀吉は、天下統一のための最後の戦を関東小田原の北条氏に攻めて、これを打ち破った。於茶々も小田原の戦陣に従い、秀吉との関係を強固にしていたが、翌天正十九年になると秀吉の周囲に不幸な嵐が吹き荒ぶようになる。
 まず、右腕である弟秀長の死、そして千利休の自刃、加えて鶴丸も病に倒れ二年と数ヶ月の幼命を散らしてしまうのだ。
 天正二十年、秀吉は明征圧のため朝鮮に出兵する。天下人に意見の言える者はおらず、鶴丸死後の於茶々とにも深い溝ができていた。そのさなか、最後の営みのつもりで交わった二人に第二子拾(秀頼)が授かる。於茶々二十六、秀吉五十七の歳のときであった……。
 伯父信長には強い殺意を抱いた於茶々だったが、秀吉にはいつか愛情に似たものを覚え、刺客石川五右衛門から身を挺して秀吉の命を守るほどだった。死を間近にして狂気に近い秀吉の言動にすら温かい眼差しを送る於茶々になっていく。