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文学を深化させる立役者「植物」

2018年07月13日 【作家になる】

年輪が刻む未知の世界の教え

この地球上で最も長命な生命体は何だかご存じですか? 最古の生命体ではないですよ。“最長”です。最も長く生きている生命体。――そう。それは木です(上の画像からしてネタバレ状態でしたね……)。現在、単体で世界最古の木とされているのはアメリカ・カリフォルニア州、ホワイトマウンテンにあるブリスルコーンパイン(松の一種)で、その樹齢はおよそ5千年といわれています。単一個体以外では、ユタ州の国立公園内に群生するカロリナポプラが同一系の根から成長しており、その根系は8万年生きつづけているといいますから、これはもう想像を絶する世界。「人生80年」である私たち人間の人生の、実に1000倍もの時間を地球上で過ごしてきているのです。

視点を逆にして1000倍側に立ってみると、ヒトの人生など1か月ほどの儚き生涯を送る“蚊”と同等。死に際になって神様に「あと7万と9920年生きろ」と言われ「やったー!」と喜ぶ方などまずいないぐらいに長い、いや永すぎる8万年の生涯(しかもこの先いつまでつづくかわからない)。そんな、人間視点からすると“永遠”にも等しい時間を生きる樹木たちではありますが、蚊ごとき人間に家や家具をつくるからと樹齢何百年にもなる仲間たちを切り倒されても、反乱も起こさず抗議ひとつせず、ただ静かに下界を見下ろしています。そのガサついた樹皮の内側には、やはり底知れぬパワーを感じざるを得ません。人間、とりわけ作家志望者たる者は、樹木が宿す人智を超えた知恵と、朴訥と刻むその年輪を前に居住まいを正し、木と植物に教えを乞わなければならぬというものです。

クリエイティビティを刺激する植物の知性

植物によって生命の科学を解き明かしたいと、一貫した信念と主張をもって書かれた一冊の本があります。フィレンツェ大学・植物神経生物学研究所の創設者ステファノ・マンクーゾとサイエンスライターのアレッサンドラ・ヴィオラによる共著『植物は〈知性〉をもっている』(久保耕司訳/NHK出版/2015年)がそれ。本著のなかでふたりは、人間の五感に対して植物は20もの感覚をもっていることを丹念に検証していきます。

サボテン愛好家のサボテンは人間の言葉を理解するといった主張をオカルトのように扱う傾向はいまなおあるようですが、マンクーゾは、人語の意識でしかコミュニケーションというものを考えられない私たちに対して、辛抱強い教師のように、植物のコミュニケーション能力について懇切丁寧に説いてくれます。そんな著者の姿勢を前に、読者は終盤、突然インスピレーションに打たれ、未知の広い世界が開けていくような、まさしく植物との対話が成立した瞬間に立ち会ったような、クリエイティブな心理的変遷を遂げるのです。

植物はどこから見ても知的な生物だ。根には無数の司令センターがあり、たえず前線を形成しながら進んでいく。根系全体が一種の集合的な脳であり、根は成長を続けながら、栄養摂取と生存に必要な情報を獲得する分散知能として、植物の個体を導いていく。環境から情報を入手し、予想し、共有し、処理し、利用する能力をもった生物として、植物を研究することができるようになったのだ。このすばらしい生物がどのように情報を手に入れ、それを処理し、得られたデータをどのように利用して秩序立った行動を起こすのか、それが植物神経生物学のおもなテーマである。
(『植物は〈知性〉をもっている』)

もしあながた賢者ならば、もう気づいているはず。植物が人間よりずっと長生きで上等な生命体なら、なんで地球上の支配者になっていないんだ? へっへー、だって動けないもんな! などと嘯く独尊状態の小童(こわっぱ)がいたとすれば、人間中心主義の現代において植物の地位を無駄に貶めてきたのはまさにそんな人々であったのだと。

太陽系という限られたなかでも“中の下”程度の大きさの惑星を支配する? そもそも、そのような偏狭な視点では植物の偉大さに迫るのは端から無理というもの。マンクーゾはこう述べています。植物は「動けない」のではなく、動かずとも自給自足できる完全なる「独立栄養生物」なのだと。つまり植物とは、人類には及びもつかない完璧な生体メカニズムを具えた生命体なのであって、サル目ヒト科ごときが嘲るわけにはいかない対象だというのです。先ほど、万が一にもあなたのなかで「へっへー」思考が僅かでもよぎったとしたら、それはお忍びで我が国を訪れた一国の王を一介のおっさん扱いしたも同然、死人のごとく青ざめて詫びなければなりません。

ノーベル文学賞作家の「庭」で思索する

『車輪の下』『デミアン』などで知られるドイツ生まれのノーベル文学賞作家(もうひと言で「文豪」と呼ぶべきか)ヘルマン・ヘッセ。彼が40年以上に亘り植物を愛し庭仕事に勤しむ日々を送ってきたのは、知る人ぞ知る話です。ヘッセは言いました。木と話し木の言葉に耳を傾ける人は生の本質を知ることができる――と。その言葉どおり彼自身も、植物と触れあう時間のなかで感得した真理を後年の作品の内に結実させたのでした。

木は、私にとっていつもこの上なく心に迫る説教者だった。木が民族や家族をなし、森や林をなして生えているとき、私は木を尊敬する。木が孤立して生えているとき、私はさらに尊敬する。そのような木は孤独な人間に似ている。何かの弱味のためにひそかに逃げ出した世捨て人にではなく、ベートーヴェンやニーチェのような、偉大な、孤独な人間に似ている。その梢には世界がざわめき、その根は無限の中に安らっている。しかし木は無限の中に紛れこんでしまうのではなく、その命の全力をもってただひとつのことだけを成就しようとしている。それは独自の法則、彼らの中に宿っている法則を実現すること、彼ら本来の姿を完成すること、自分みずからを表現することだ。
(ヘルマン・ヘッセ『庭仕事の愉しみ』/フォルカー・ミヒェルス編/岡田朝雄訳/草思社/2011年)

『庭仕事の愉しみ』はヘッセの死後発行された著。彼が遺した植物や庭にまつわるエッセイ・詩・絵など多彩な創作物を編者がまとめた一冊です。そのなかでヘッセは、自らの波乱に富んだ人生を省みるかのように、ひとつの瞑想の場として庭に立ち、木を剪定し種を蒔く姿を見せています。

自伝的要素を含み少年の挫折と死を描いた『車輪の下』、自己を模索し光と影の世界をさまよう『デミアン』、彷徨の末に無我の境地に至る『ガラス玉演戯』(ノーベル文学賞受賞の契機となった)。そうした創作の軌跡からも、ヘッセの人生が懊悩の影濃く障害の多い道のりであったことが見てとれます。二度の戦争を経験し、精神の危機に見舞われ、戦争批判・文明批判を行なって祖国を離れたヘッセ。うんざりするような歳月で彼に慰めと活力を与えてくれたのは、畝に種を蒔く庭仕事でした。腰と背を痛めたヘッセが、耕しても耕してもはびこる雑草に負けじと鍬を揮う先には、生きるために根を張り、昆虫を呼び、実を結ぶ花や木が立ち現われていたことでしょう。

草花は枯れ、次の春朽ちた残骸の下から芽を出す――そのことを知識としてもっていることと、肌身で実感することは、受け売りの知識と実際の人生経験ほどに違いがあります。そんな植物と庭の秘密を覗かせてくれる本書。出し惜しみのない文豪の筆致は温厚で優しく、絶えまない自然の営みのそこかしこに、人間の歪な存在性と自己的思考のあり方を浮かび上がらせていて、草花や木とともにときを過ごしたかのような安らかな感慨を呼び起こしてくれます。

樹木を見上げ、植物と対話して、本を書く

遠い昔、人間が地球上に姿を現わすはるか以前に、一本の巨大な樹木が天までそびえていた。
(ジャック・ブロス『世界樹木神話』/藤井史郎・藤田尊潮・善本孝訳/八坂書房/1995年)

世界中に散らばる樹木の神話伝承をまとめたジャック・ブロスの『世界樹木神話』。大全と呼ぶにふさわしい著者畢生の一冊です。人間が勝手に神になぞらえることを果たして植物自身が喜ぶかどうかわかりませんが、世界に枝を広げるトネリコの大樹「ユッグドラシル」をはじめ、もうそれ以外に呼称が思い当たらない「宇宙樹」と呼ばれる巨木たち。「シャーマンのカバノキ」「悟りの聖なるインドボダイジュ」「逆さまの樹木アシュヴァッタ」――。そのどれもが、居丈高ではない、温かく壮大な神の存在にも等しいオーラを発し、それがためにかえって眺める側の人間をも謙虚にさせます。植物の偉大な生命力に気づき慎ましくなる、巨大な存在を前に人間の卑小さを知る――いえいえ、そんな形而下レベルとは異なる次元で、大樹とそれを取り囲む自然環境は人間を感化します。そうした包み込むような不思議なエネルギーを感じる場所を、人は「パワースポット」と呼ぶのかもしれません(が、そう呼ぶと俗っぽさが勝つ)。

「宇宙樹」の存在はまた、想像力の翼を我知らずはためかせてくれもします。宇宙樹はいったいどこからやってきたのか、世界各地の離れた土地の神話に同じ発想が根づいたのはなぜか――そんなふうに想像を巡らせる世界は、すでに未知の魅惑に満ち溢れているではありませんか。

もの言わぬ植物。では、その語りを聞くことができるのは、シャーマンのような限られた人間だけなのでしょうか。いいえ、そうではないでしょう。圧倒的なその威容に神の物語を重ねることがあっても、樹木は無用に崇め奉ったり畏怖すべき存在ではありません。大樹は見上げればその姿を間近に目にすることができますし、植物の素朴そのままの営みにだって、あなたの心もち次第で通勤途中すぐにも近づくことができます。

神のごとく人間を睥睨するのではなく、あるがままの姿でただ立ち、季節の変化や命の盛衰を教えてくれる木。植物や樹木が見せてくれるのは、神秘の壮麗な物語か生の真理か。いずれにせよ彼らは、本を書きたいあなたに、穏やかにして深遠な言葉を囁いてくれるはずです。本稿を読まれたあとは戸外に出、これと思う草花、樹木を見つけてください。そして半時間ばかり、その前に静かに佇んでみましょう。あなた自身も押し黙り、街から流れてくる雑踏の反響も無事にやり過ごせたなら、目の前の草木はきっとさまざまな物語を説いてくれることでしょう。

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