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「本を書く」ために「考えること」を習慣にしよう

2023年05月24日 【作家になる】

真摯な思考は相応しいテーマと“対の関係”にある

「人間は考える葦である」という言葉。本稿を読むおそらく誰もが耳にしたことがあるでしょう。17世紀フランスの哲学者・数学者のパスカルが遺した言葉で、人間は自然界では頼りない「葦」のような存在に過ぎない、しかし考えることができる──と「思考」というものの偉大さ、素晴らしさを伝えているわけですね。もちろん、作家になりたい者であれば、人一倍「考えること」の重要性を理解しているはず。何をいまさら、当たり前だろ、何をどう書こうかと四六時中考えてるよ──と胸を張る方もいらっしゃるかもしれません。そうそう、それが物書きとして正しい姿勢です。ただ一点注意しておきたいのは、その「思考」がどのような類のものか意識したことがあるか──ということです。何かいいアイデアはないかな……、どんな物語の筋にするかな……などと漠然と考えていても、ひょっとするとそれは、思索がほうぼうに拡がるばかりで、あなたが本当に求めているゴールに通じる道を辿るのとはまた別の行為になっているかもしれません。身も蓋もない言い方をすれば、やはり「思考」にも松竹梅というようなランクがあり、求めるところへいっこうに導いてくれない思考もあるからです(ずっと夢見がちなままでいられることも、それはひとつの幸せな生き方に違いありませんが、それはちょっとここでは置いておきましょう。)。

まず「真摯な思考」、松竹梅でいう「松の思考」には、当然ながら深遠なテーマがセットとされるべきだということを前段として認識しておきたいです。そうした思考習慣を身につければ、小説を書きたい、あるいはエッセイを書きたいあなたの作品は、俄然深く、ワビサビのにじむ色合いを帯びてくることでしょう。いっぽうで、思わず飛びつきたくなるような惚れた腫れたフラれた……といったパッションと呼ぶべき感情は、思考をはじめる動機とはなり得ても、それを深めていくだけの燃料にはなり得ません。なり得るとしたらそれはよほどドロ沼の……。ということで今回は、答えを着実に“考え求める”ために相応しいテキストを取り上げたいと思います。

深遠な思考へと導く「混沌」の世界

人が深遠な思考へと促されていくのは、どんなときでしょう。洞窟内をサーチライトでぐるりと照らしてみるようにして少し自身の内奥を一巡すれば、日常的にも、また思想的・哲学的にも、簡単には答えの探せない「混沌」に包まれたとき──と、そういう経験がある方なら思い起こされるのではないでしょうか。そんな局面に出食わしたとき人は、なす術もなく混沌をやり過ごすか、混沌の内部に分け入って出口を探すしかありません。そして、作家を志す者とあれば、混沌を見ないふりしてやり過ごそうとする態度はご法度です。むしろ、これぞ絶好のチャンスと腕まくりをして果敢に挑んでいくことで、貴重な思考体験を得られることでしょう。幸い、本を書きたい方はだいたい読書好きでもあるので、みずからその機会をつくることも容易です。すなわち、混沌世界を描いた本を紐解けばよいわけです。

イギリスのノーベル文学賞受賞作家、ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』は心が粟立つ作品です。少年たちの無人島でのサバイバル、というと、ジュール・ヴェルヌの不朽の名作冒険小説『十五少年漂流記』を思わせ、実際しばしば比較されるところですが、タイトルが匂わす芳香からしてまったく異なるこの小説、物語の雲行きもまったく異にしています。『十五少年漂流記』の少年たちが団結と希望を体現しているのに対し、ゴールディング描くところのサバイバルは、不信と残酷な暴力を映し出す混沌に満ちており、“悪”のモティーフがちらりちらりと顔を覗かせます。いまの時代、もしかしたらこちらのほうがハマる読者が多いかもしれませんね。

「悪のモティーフ」の意味するものとは

ウィリアム・ゴールディング『蝿の王』の舞台設定は、第三次世界大戦勃発を背景に窺わせる近未来。飛行機の不時着により、少年たちが無人島に取り残されるところからはじまります。戦争をよそに長閑で食料も豊富なこの島で、少年たちは当初ちょっとしたバカンス気分を味わいます。互いに協力して島を探検し、秩序をもった生活を送り救助を待つ彼らでしたが、やがて──。火が燃え広がり林を焼き、ひとりの少年が姿を消します。その事実から眼を逸らし、狩りにのめり込んでいく少年たちは、次第に残虐さを現しはじめます。「獣ヲ殺セ! ソノ喉ヲ切レ! 血ヲ流セ!」と肉を求めて歌い踊る姿は呪いの儀式のように異様です。こうして豚の死も人間の死も境目がなくなり、仲間同士であったはずの少年たちのあいだに憎悪が生まれます。それはもはや、何が理由かすらわからない憎悪──。

聖書に登場する「ハエの王」と呼ばれたベルゼブブ。少年たちは、島に得体の知れない獣がいると信じて恐怖し、殺した豚の首に棒を刺して“捧げもの”とします。ハエのたかったその首こそが、この物語の「蠅の王」。「蝿の王」はひとりの少年にこう語りかけます。

「わたしはお前たちの一部なんだよ。お前たちのずっと奥のほうにいるんだよ? どうして何もかもだめなのか、どうして今のようになってしまったのか、それはみんなわたしのせいなんだよ」

(ウィリアム・ゴールディング著/平井正穂訳『蠅の王』/新潮社/1975年)

それが悪魔の囁きなのか、少年の心の混乱を示すものなのか、わかりません。囚われた環境にある限られた人々のなかに、得体のしれない恐怖が生まれたとき、彼らがどのように変貌していくか、ゴールディングはその役割を子どもに託して描きました。ではなぜ、“子ども”でなければならなかったのか──。

「考えること」は“謎解き”であり“冒険”である

『蝿の王』については、さまざまな解釈があります。子どもを主役としたのは、人間の原罪を抉り出すためであるとか、悪の正体を見極めるためであるとか……。しかし、人間の原罪を問うにあたり子どもを用いたという解釈は、のちにブッカー賞やノーベル文学賞を受賞する作家の初期の仕事を講ずるにあたり、いささか短絡的といいますか、ありきたり過ぎるようにも思えます。ゴールディングが少年たちを主役としたのには、もっと別な意図があったのではないでしょうか。ジャン・コクトーの『恐るべき子供たち』という小説がありますが、あるいは『蝿の王』に描かれているのも、(大人が盲目的に信じ込もうとする)神聖さのベールを剥ぎ取ったあとの子どもの素顔、子どもがもつ子ども本来の底しれぬ残酷さなのかもしれません。

さて、あなたはこの作品の一端に触れてどのように考えるでしょうか。『蝿の王』は、決して読後感のよい作品ではない、いえむしろ、吐いて忘れたくなるような嫌な残滓が残る物語かもしれません。けれど胸につかえるような感触、すっきりしない胸糞悪さ、そんなあと味がどこから来ているかといえば、自分のなかにある“見ないふりをしていたいもの”に触れたから──ともいえるのではないでしょうか。物語が大団円で閉じないとき、読者は自力で自分の心理を安定化させることを強いられます。それが、厄介な課題を投げかけられた側の居心地の悪さであり、「思考」のはじまりなのです。

「考えること」はこうして果てしない旅をはじめます。それはスリリングな謎解きであり、知の冒険でもあります。ウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』。半世紀以上も前の作品になりますが、現代にもその種子は蒔かれ、別の形でちゃんと引き継がれようとしています。モダンホラーの帝王スティーヴン・キングが愛読し、中上健次作品のモティーフとして登場することは、それら系譜が好きな方にはよく知られているところです。真摯な思考習慣を身につけるべき作家の卵に、“なぜだ?”と考える絶好の機会を与えてくれる一冊であるのは間違いありません。

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