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芥川龍之介はなぜ「芥川賞」に名を冠せられたか

2023年04月13日 【小説を書く】

「芥川賞」──その成り立ち

芥川龍之介は偉大な作家です。と、誰もが知っています。しかしその偉大さの「何」を具体的に知っているのか? と問われれば、いささか言い淀むのもまた事実で、そりゃあ芥川賞っていう賞があるんだからサ──と、そんな言葉が口をつくのではないでしょうか。では次に、芥川賞があるから芥川龍之介の名声が今日まで轟いているのか、芥川龍之介の名を冠しているから芥川賞が今日も立派に権威を保っているのか──の問いには、あなたならどう答えるでしょう。案外、考えたこともない問いかけではないでしょうか。

そもそも、芥川賞ははじめから権威ある文学賞として認知されていたわけではありませんでした。設立は芥川の死から8年後の1935年(昭和10年)。友人の菊池寛が芥川の早過ぎる死を悼み、その業績を顕彰して、直木三十五の直木賞とともに立ち上げました。小説家としてはもちろん、編集者や実業家としても鬼のように辣腕だった菊池ですから、たぶんにビジネス上の目算あっての設立だったはずです。が、当初はジャーナリズムでは期待したような注目は集めず、一般的な認知もはかばかしくなかったようです。

それでも初回から文壇の、さらにいえば純文学という限定的な領域では相応の「格」があったのでしょう。『逆行』で第1回の芥川賞候補となった(のち落選した)太宰治が、その後も芥川賞を文字どおり喉から手が出るほど切望したのは有名な話です。クスリ代ほしさに──などと巷ではおもしろおかしく語り継がれていますが、芥川を敬愛すること並々ならなかった太宰です。芥川の自害を知るとひとかたならぬ衝撃を受けたくらいですから、彼にとって、この賞には格別な文学的お墨つき、否それ以上の意味があったに違いないのでしょう。その後、芥川賞の社会的認知は1956年の石原慎太郎『太陽の季節』の受賞で大きく変わり、しばしば社会現象めいたセンセーショナルな影響力をもつようになりました。

というように「賞」であり「show」ともなった芥川賞に、自身の名を冠せることになった芥川龍之介。作家を志す身としては、そりゃ芥川賞があるくらいだから立派な作家だろうサ、というような獏とした認識をあらため、その偉大な作家性を検証しないわけにはいきません。

“文芸”──文学芸術にかけた作家の生涯

『文芸的な、余りに文芸的な』

この文句は、小説の芸術性に筋のおもしろさを主張する谷崎潤一郎に対し、筋らしい筋をもたない芸術的な小説も存在するとして、芥川が反駁した文学評論のタイトルです。タイトルにこそ、論争自体へのちょっとした揶揄が込められているように察せられますが、評論自体は、もちろん小説家としての芥川の主義主張を明かすものであり、すなわち、芥川作品への理解を深める鍵が隠されています。

「話」のない小説を最上のものとは思つていない。が、若し「純粋な」と云ふ点から見れば、──通俗的興味のないと云ふ点から見れば、最も純粋な小説である。

(芥川龍之介著『侏儒の言葉 文芸的な、余りに文芸的な』/岩波書店/2003年)

芥川の初期短編に『鼻』という作品があります。『今昔物語集』『宇治拾遺物語』に登場する池尾禅珍内供という鼻の長い僧侶の話を下敷きとして、芥川は、異様な鼻の長さをからかわれ内心傷つきながらも平気を装っていた禅珍が、ある方法により鼻が短くなって喜んでいたところ、かえって笑われてしまい過去の自分の“長い鼻”を懐かしむ──という物語に仕立てています。芥川はこの小説によって、他人の不幸に寄り添うようでいて、いざその人が幸福になればそれを妬む人間心理を描きました。このように「『話』のない小説を最上のもの」とするではなく、「純粋であるか否かの一点に依つて芸術家の価値は極(き)まる」(『文芸的な、余りに文芸的な』より)という信念のもと、芥川は古典に材を採った前期作品群を書き上げたのです。では、なぜ古典なのか──このことを、芥川と親交がありその死の報に絶望し病床に臥すほどであった堀辰雄が深く読み解いています。それは芥川の死の2年後、東京帝国大学(現・東京大学)の学生であった堀が提出した卒業論文の一節でした。

彼はこの「鼻」のやうに古い物語を題材として多くの小説を書いた。彼はそれらを唯古い物語を近代語に翻訳して書いているのではない。彼はそれらの中にさまざまに人間の心理を解剖しているのである。それならば何故、彼は古い物語の中に人間の心理を解剖すると云ふやうな廻りくどい方法をとつたのであるか? それは彼にとつては、さういふ最も廻りくどかるべき方法も実は最も迅速な方法であつたからに過ぎない。と言ふのはかうである。彼が或テエマを捉へてそれを小説に書くとする。さうしてそのテエマを藝術的に最も力強く表現するためには、或異常な事件が必要になるとする。その場合、その異常な事件なるものは、異常なだけそれだけ、今日起つた事としては書き難い、もし強ひて書けば、多くの場合不自然の感を読者に起させて、その結果折角のテエマまでも犬死をさせる事になつてしまふ。ところでこの困難を除く手段には、昔起つた事とするより外はない。彼の昔から材料を採つた小説は大抵この必要に迫られて、不自然の障碍を避けるために舞台を昔に求めたのである。

(堀辰雄著『芥川龍之介論──藝術家としての彼を論ず──』/『堀辰雄作品集第五巻』所収/筑摩書房/1982年 新字体表記は引用者による)

作家として、何よりも芸術性を重んじ芸術家であろうとした芥川。そのひとつの姿勢が、話の筋に左右されることなく、小説の純粋性を追究することでした。そのために、話に不自然な感を生じさせない方法として古い物語を用いた、堀はそう語るのです。ここでふと思います。純粋な小説を創り上げるには、そのテーマも蒸留昇華されたものでなくてはならなかった──のではないかと。

「論理の核」の媒体としての小説

論理の核としての思想のきらめく稜線だけを取り出してみせる

これは、芥川が自らの小説技法として説明していた言葉──として、“芥川界隈”をネットで漁るとしばしば行き当たる一文です。残念ながらその典拠を見つけることはできませんでしたが、「論理の核」「思想のきらめく稜線」とはそれこそ蒸留昇華された小説テーマであり、芥川の作風を示すのにふさわしい言葉のようにも感じられます。芥川の晩年、その死のときまで書かれた随筆や短い警句をまとめた『侏儒の言葉』は、彼の数多の著作のなかでもとりわけ、芥川龍之介という文豪の生涯を通しての創作意図が読み取るれる一作です。そこには「わたしは神を信じていない。しかし神経を信じている。」というように、「神」と「神経」という言葉が対句のように現れます。彼が信じる「神経」が捉える些細なもの、それが「鼻」であり「芋粥」であり「手巾」であり、それらモチーフの上で芥川作品は物語を紡いでいくのです。思えば、小学生のころに誰もが読んだであろう『蜘蛛の糸』にしても、その皮肉な結末は子どもにもわかりやすい人生訓が浮かび上がっています。しかしあの作品の一種独特の突飛な設定は、「何か」になぞらえていなければ最初から馴染めるものではありません。ましてや読者は児童です。そんなギャップも楽々飛び越し作品世界に没入させてくれるのも、古典的な枠組み──極楽、お釈迦様、地獄、カンダタをはじめとする無数の罪人──なのかもしれません。そんなふうに芥川は「論理の核」の母胎として、やはり堀が言うように古典を用いたのでしょう。

やはり偉大であった作家の遺言

気韻は作家の後頭部である。作家自身には見えるものではない。若(も)し又無理に見ようとすれば、頸(くび)の骨を折るのに了(おわ)るだけであろう。

(芥川龍之介『侏儒の言葉』/『昭和文学全集 第1巻』所収/小学館/1987年 ルビは出典青空文庫に従う)

いかにも芥川らしいシニカルで諧謔的な一節です。「気韻」とは、気品のある様子、風雅な趣。要するに、それを求めようと直截的なアクションをしても怪我をするだけだということです。より平たく言うならば、作家になりたいなら、よい小説を書きたいなら、気取るなよ!──こう芥川先生はおっしゃられているのです。最後に、『侏儒の言葉』からもう一文。

最も善い小説家は「世故(せこ)に通じた詩人」である。

芸術家として詩人を最上と考えていた芥川龍之介。「世故」とはつまり世間の俗事や習慣のこと。「善い」小説家になりたいと冀う(こいねがう)懸命な書き手ならば、この言葉の深みをしかと感じ取り永く心に刻むことでしょう。小説を書く──その営みはまさに蜘蛛の糸のように、天上界の知と地上の民とをつなぐ尊いクリエイティブワークなのです。ときとして孤独をいっそう感じさせる創作活動を、アマチュアであれば何の宛てもないままそれに勤しむ自分というちっぽけな存在を、これほどまでに誇らしく感じさせてくれる言葉はありません。

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