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巨人バルザックの「人物再登場法」

2023年04月04日 【小説を書く】

巨大な構想『人間喜劇』という金字塔

全宇宙から見れば塵芥のごときちっぽけな惑星に過ぎない地球、そしてその地上に棲む人間。けれど、そんな地球属人類のなかにもときおり、「巨人」や「怪物」と称される桁外れの傑士が生まれ出てくることがあります。レオナルド・ダ・ヴィンチしかり、アルベルト・アインシュタインしかり。そして19世紀フランスが生んだ作家、バルザックもそんなひとりといえましょう。もはや「文豪」というお堅い呼び名すらそぐわないオノレ・ド・バルザック(「ド」は貴族を気取ってのちに自分でつけ加えた)。彼については、型破りというよりは、彼なりの型はあるのですが、それが巨大過ぎて全容が計りしれない、といったほうが正確でしょうか。何が巨大って、恋愛遊戯(本気だったかもしれない)でも人並はずれた手腕と精力を発揮したようですし、見る者を唖然とさせる大食漢でそれこそ馬のように食べたとか、莫大な借金をものともせず膨らませつづけた(そして返さずに死んだ)とか、小説がいかんのは出版界のせいだと出版業に乗り出し、印刷業・活字製造業にまで手を広げたとか。人物像的な伝説には枚挙にいとまがありませんが、やはりその巨大ぶりは、小説の「構想」と尋常ならざる「創作力」に度肝を抜くものがあるわけです。

オノレ・ド・バルザックについては、だいぶん前に当ブログでもごく軽く紹介しましたが(当ブログ記事『作家になるために“勝手に”師事する』)、今回はより深く、彼の巨大な仕事ぶりを示す作品シリーズ『人間喜劇』に焦点を当ててお話ししたいと思います。

『人間喜劇』は世にも壮大な構想のもと執筆されました。バルザックは死ぬまでに長短合わせおよそ90編のシリーズを書き上げましたが、なおも50編ほどが未着手のまま終わったといわれています。決して長くはない51年の生涯(鯨飲馬食による早世)において、はたまた、社交にも恋愛にも一切手抜きのなかった私生活を見るにつけ、これは馬車馬のごとき仕事ぶりというべきでしょう。「人物再登場法(同じ人間を複数の作品にまたいで登場させることで作品世界をさまざまな視点から構築する手法)」によって、すべての物語が相関図のように有機的な結びつきを見せる『人間喜劇』。巨人バルザックがこの小説シリーズによって何を描き出したものとは何か?──作家になりたい者にとって、おおいに興味の湧くところではありませんか!

人間絵巻が映じる「社会」という混沌のパノラマ

私は彼女達に私の人生をやった、彼女達は今日、私のために一時間すら割いてはくれないだろう! 喉が乾いて、腹が減った、胸は焼けるようだ、彼女達が私の激痛を和らげるために来てくれることはないだろう。私は死ぬんだ、だから私にはそれが分かる。だが、彼女達には、自分達の父の死骸を踏んづけることが、どんなことかということすら分かっていない!

オノレ・ド・バルザック著・中島英之訳『ゴリオ爺さん』/青空文庫

『人間喜劇』の構想が動き出したのは、こちらもまたバルザックの代表作として挙げられる『ゴリオ爺さん』(原題『Le Père Goriot』)執筆の最中。それ以前の作品では脇役だった青年を主役に取り上げて書き進めてみたところ、「これはおもしろいぞ」とはたと気づいてしまったのでしょうか。キャラクターを別作品に再登場させる手法で物語をつなげていったら、ひとつの大きな社会の姿が浮かび上がってくるぞと。のちに「人物再登場法」と名づけられたこの手法は、現代もよく見る連作短編小説にも似ています。脇役を主役に転じて書きつづけながらひとつのテーマを映し出すそれらの作品集とバルザックの『人間喜劇』が大きく異なるのは、主人公が以前の特徴的なキャラクター性をそのままもって登場し、より濃密な変貌や強調の物語となっている点です。こうして長短の物語が次々とつながっていくにつれ、人の生活や風俗のありさまが織りなされて、大きなひとつの社会の姿が現出したのでした。

『ゴリオ爺さん』の主人公はラスティニャックという青年。純情で真面目な一学生であったはずの彼が、やがて野心に目覚め冷酷な人間に変わっていくさまが描かれています。後世のフランスで「ラスティニャック」が“出世のためには手段を選ばない男”の代名詞になったくらいですから、そのキャラクターは新奇かつ強烈でした。いっぽうゴリオ爺さんは、娘たちを溺愛する実直な父であったのに、虚栄心に満ち満ちた当の娘たちに財産を吸い上げられ見捨てられて惨めな死を迎える、社会の陰で潰えていく人物の象徴として描かれます。野望に翻弄され虚飾にまみれ真心を踏みにじられて破滅していく人間ども。そんな哀しき生き物の数多の物語を収めた『人間喜劇』。大きな社会の様相を浮き彫りにしたこの不朽の名作は、巨人バルザックが描く人間絵巻さながらです。

いつの時代も変わらぬ人間の欲望と虚栄心

「あんたが行った努力や闘いに熱中したことを考えてみよう。あんた達は鍋の中に入った蜘蛛のように、交代々々で餌を食べなきゃならんのだ、何故なら五万も良い餌のある場所なんてないからだ。この世で私達がどれだけ苦労して道を拓くかはお分かりだろう?」

(同上)

バルザックは『人間喜劇』において、風俗や市民生活を分析的視点と人間心理への追究をもって思索し、社会が「何」によって形成され動いているかを看破しました。それすなわち、欲望と虚栄心。『ゴリオ爺さん』の主人公ラスティニャックは、ほんの貧しい純情青年に過ぎなかったのに、ゲーテ『ファウスト』の描くメフィストフェレスのごときヴォートランの悪魔の囁きに操られ、邪(よこしま)な野望すらもって、絢爛たる出世を目指すようになったのです。あなたのまわりには、そんな人物はいませんか? 大小の差こそあれ……。

フランス革命から10年後の1799年に生まれ1850年に世を去ったバルザック。彼が生きた19世紀前半は、フランス革命、恐怖政治時代、ナポレオンの台頭と失脚を経て、徒花のごとき消費文化が華麗に咲き誇った時代でした。感覚的にわかりやすく日本経済史に喩えると、高度経済成長とバブルがいっしょにやってきたようなもの。派手な華やぎと退廃で百花繚乱の様相を見せるパリは、まさに消費社会の濃密な縮図でした。その只中に生きたバルザックは、人間の欲望と虚栄心こそが消費社会の原動力であると見切って、痛烈な揶揄を込めて『人間喜劇』と命名し、人間たちの連鎖する一大作品群を創り上げたのです。もとより、爛熟と退廃の19世紀パリも現代日本も、人間の欲望と虚栄心に変わるところはないでしょう。巨人バルザックの時代からおよそ200年を経たいま、さてあなたは、どのような社会と人間を描いてくれるのでしょう。

「人物再登場法」。安易に用いるには小舟で大海に漕ぎ出すのにも似た不安がありますが、すでに一作二作の手持ちがあり、じゃあ次は何を──と思案しているのであれば、偉人バルザックに習うつもりでそれを使い、あなたの他の作品とともに社会を映し出す一作に取りかかってみるのもよいのではないでしょうか。

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