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原民喜に見る作家の純粋性

2019年04月12日 【詩を書く】

純粋無垢が人を惹きつける

原民喜という詩人がいました。若くして妻と死に別れ、疎開先の故郷広島で被爆し、心に癒しがたい傷を負い、少年のような思慕にひとときのなぐさめを得たのち、最後は国鉄中央線の線路の上に横たわって命を絶ちました。今回はその生き方を検証し、人間、そして作家の純粋さということの意味を考えてみたいと思います。純粋であるということは、もちろん人間のかけがえのない資質。加えてそれは、ものを書くうえでも、創作するうえでも重要な要素です。原民喜は、それがなぜ大事なのかを教えてくれる作家のひとりなのです。

生身の原を知る人がそろって口にしたのが、彼の対話能力の低さ。それは現代でいう「コミュニケーション障害」の範疇であったと想像されます。成績はよかったものの、学校ではおよそ口を開くことがなく、当然不器用で、その性格は終生変わりませんでした。後年、原稿を出版社とやりとりするようになっても、妻に付き添ってもらい話はすべて妻がするというありさま。そこまでとなると、むしろ妻を得られたことのほうが不思議なくらいですが、それでいて原は決して人間嫌いというわけではなく、彼を受け容れる者には無条件の信頼を寄せる人物でした。ろくにしゃべらなくともにこにこと隣に佇んで、相手もそんな彼に深い信頼と愛情を寄せたようです。なかでも、もっとも強い絆で結ばれたのが妻でした。

作家として為すべきことを知るとき

1905年(明治38年)誕生、1951年(昭和26年)没。享年46歳。誰にとっても激動の時代であったとはいえ、そのなかでも原の運命は過酷だったと断言していいでしょう。少年時代に父を亡くし、大好きだった姉も亡くし、母を亡くし、ようやく巡り合った最愛の妻は結婚後およそ10年で亡くし、戦禍から逃れようと疎開した広島で、被爆。家族をはじめ夥しい無惨な死を目の当たりにする人生でした。すべてを失い、身体の不調もあったに違いない原の絶望と苦しみは想像を絶します。しかし、誰もが気弱と思っていた原は、最悪の惨事を経験して鋼の芯を示しました。絶望に耐え、為すべきことを為そうと心を決めたのでした。

僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。還るところを失った僕をつらぬけ。突き離された世界の僕をつらぬけ。

(原民喜『鎮魂歌』/『夏の花・心願の国』収録/新潮社/1973年)

残された作品を見るなら、純粋さという天性をもった原民喜という人物は、ふたつの顔を見せています。ひとつは、少年のような純粋さをありのままに表した顔。もうひとつが、原爆小説として有名な『夏の花』を書かせた、雄々しくも悲壮な覚悟をもった作家の顔です。

苦しみ、悲しみは一篇の詩となり小説となる

原と深い親交を結んでいた作家の遠藤周作は、その著書で原とのエピソードを語っています。三田文學(原と遠藤の母校である慶応義塾大学文学部発行の文芸誌)を介して知り合い、17歳年長の原を尊敬しつつ、なにくれとなく世話を焼いたのが遠藤でした。出会ってからというもの、彼らふたりは始終いっしょに過ごし、ほぼ毎日通っていた一杯飲み屋兼食堂の娘に原は思慕の念を抱きます。それが淡い恋であったのか、すでに40を越えていた原の少年期への郷愁に誘われたものだったのか、わかりません。けれど、間違っても不純なものでなかったことは、原の残した作品から伝わってきます。原の気持ちに気づいた遠藤の取りもちで、三人は幾度となく和やかな時間を過ごしたようです。そのときの幸福感を原は死ぬまで忘れず、ふたりに遺書代わりの詩を送ったのでした。

濠端の柳にはや緑さしぐみ
雨靄につつまれて頬笑む空の下

水ははつきりと たたずまひ
私のなかに悲歌をもとめる

すべての別離がさりげなく とりかはされ
すべての悲痛がさりげなく ぬぐはれ
祝福がまだ ほのぼのと向に見えてゐるやうに

私は歩み去らう 今こそ消え去つて行きたいのだ
透明のなかに 永遠のかなたに

(『悲歌』/『新編 原民喜詩集』所収/土曜美術社出版販売/2009年)

10年ほど前のこと、遠藤周作が原を評した未発表の原稿が見つかりました。そのなかで遠藤は「彼が苦しくても逃げなかったのは『流した涙が、きよらかな水晶となり、一行の詩となる』から」であったと語っています。亡き友の遺した詩句が、いつまでも遠藤の心に刻まれていたことがわかります。

純粋であるということは、生まれたての子どものように穢れがないこと。ただし、作家としての純粋さとは、それだけではないようです。耐えがたいことにも耐えた末には必ず、自らの魂の結晶が結実すると信じる純真な心が必要なのです。それはもう「純粋さ」と呼ぶより「強さ」と呼ぶべき精神のあり方なのかもしれません。その尊さを教えてくれる原民喜。あなたが、詩を書き、小説を書き、作家になりたいと志抱くならば、自身のそうした覚悟のすぐそばに、原民喜という男の存在を留めておきたいものです。くじけそうになる心を支えてくれる日が、きっと来るはずです。

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