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スタンダールに見る名作の本領

2019年04月19日 【小説を書く】

創作力を用いずに小説を書く“奥の手”

当ブログでは日本をはじめ世界の名作文学をしばしば取り上げていますが、今回俎上に載せるのは、19世紀フランスの作家、スタンダールです。順番に文豪が出てくるからといって、文豪クジなど引いて適当に決めているわけではありませんよ(そういうクジを駄菓子屋に置いて子どもの啓発を促したらいいのに。大人になったら読むんだ!――と憧憬を抱かせる。)。彼を取り上げるのは、文豪と呼ばれる作家たちのなかでも異色の存在であるスタンダールについてそろそろ触れておきたいから。常々「創作力が大事」とお伝えしてきた当ブログではありますが、その論調の前にたじろぐ方も少なからずいらっしゃったはずです。謙虚で控えめな人ほどそうであったと思うのですが、今回はそんな方々の背中を押す記事にしたいと思います。そのためのスタンダール召喚――。

肖像画を見ると、文豪たる威厳や個性にいささか欠けるずんぐりした風貌ですが、そういう話をしようというのではありません。スタンダールには小説を書くにも、容貌魁偉な文豪たちがある面まったくおよばない、彼ならではのユニークなもち味と作法(さくほう)がありました。第一に彼がユニークであるのは、その作家としての特質です。バルザックやデュマやユゴーといった同時代の大作家と同様に、スタンダールも等しく創作力に優れていたかというと、むしろその逆だという評価もあるようです。創作力に乏しい文豪などいるものかと思いますが、これが「いる」ということなのでしょう(バルザックらと比べての話ですが)。もちろん、のちに世界の文豪と呼ばれることになる作家はそれで終わりはしません。創作力の不足を補う特性をもち合わせていて、それが彼を唯一無二のユニークな文豪たらしめたのでした。スタンダールは、みずからの創作力のなさをいわば逆手に取ったのです。

デュマの『モンテ・クリスト伯』(当ブログ記事『書きたいのは暴露本? それとも真の復讐物語?』参照)がそうであったように、いずれの文豪も実際の事件や歴史的記録などをストーリーベースにすることはあります。そこから創作力で肉付けしたりアレンジを加えたりして膨らませていくわけですが、『赤と黒』は、実際に起きた事件をパズルさながらさまざまに組み合わせるようにしてできあがっているといわれます。それは本を書く作家の仕事というより、むしろ編集者やライターに近い手法と感覚を思わせます。

「人間心理」で主人公像を描く文豪の思惑

当ブログでもお馴染みサマセット・モームによる「世界十大小説」に数えられている『赤と黒』は、貧しい生まれの野心的な青年の成功と破滅の物語です。スタンダールが示した第二のユニークな点、それは本作に描かれる主人公ジュリアン・ソレルの像にあるといえるでしょう。ジュリアンの名はのちに“野心的な青年”の代名詞ともなったのでした。

貴族階級のサロンというものは、どこそこのサロンからの帰りでね、などと口にするには楽しかろうが、それだけのものだ。礼儀などというものは、それだけでは、なんらかの値打があるとしても、最初のあいだのことにすぎない、ジュリヤンもこれを経験したわけである。最初は、心を奪われ、それに続いて最初の驚きを味わった。《礼儀なんてものは、無礼なふるまいに腹をたてないというだけのことなのだ》と、ジュリヤンは思った。

(スタンダール著・小林正訳『赤と黒』新潮社/1957年)

バルザック作品の登場人物が劇的にデフォルメされているのに対して、スタンダールが描いたジュリアンのキャラクターには現代にも通ずるものがあります。この小説が1830年ごろに書かれたことを思うと、これは驚くべきこと。では、創作力のないスタンダールがなぜジュリアン・ソレルのような、後世のスタンダードと見なされるキャラクターをつくり得たのか。極めて逆説的な論理になりますが、それはまさしく創作力が乏しかったゆえなのです。どういうことかといえば、スタンダールはジュリアンを、学問的、つまり人間心理を考え展開させつつ作り上げたと考えられるのです。これはちょっと興味深い分析ではないでしょうか。まるで現代の人工知能AIの創作アプローチのようです。

時代と社会を見据えてこそ「本を書く」意味はある

さて、成功と転落のドラマティックなストーリーは、敗北と勝利の物語でもありました。女とは己の野心のために利用するものとしか考えなかったジュリアンは、死を前に真実の愛に目覚めます。……おや!? 『赤と黒』はメロドラマなのか――というと、そんなわけはありません。スタンダールは、愛に目覚めながらも支配者階級の壁を乗り越えられなかったジュリアン・ソレルの末路を描く物語に、王政復古に傾きはじめた社会への痛烈な批判を込めました。そして『赤と黒』は、フランスのリアリズム小説の嚆矢となったのです。

後世で名作中の名作と折り紙がつけられた『赤と黒』ですが、刊行時はほとんど評価されなかったというのもスタンダールのユニークさ、先見性を示しているでしょう。彼はつまり、当時の流行作家たちのように、売るつもりで大衆小説を書こうとしなかった。いや売るつもりは大ありだったかもしれませんが、彼自身、この小説が認められるのは19世紀末か20世紀になってからだろうと予言していたとおり、『赤と黒』はのちの時代を見据えた小説であったのです。スタンダール自身がどのような表現でそう語ったかはわかりませんが、「いずれ時代が追いついてくる」に類するそんな放言すら、極めて現代的なリップサービスのようにも感じられます。

『赤と黒』というタイトルについては、これまでもさまざまな解釈が取り沙汰されています。上流階級によって占められる職業の制服、軍服の「赤」と法衣の「黒」を指すという説。けれど実際は当時のフランス軍の軍服は青色だったようです。あるいは、赤と黒で競うバックギャモンの逆転劇を意味したとか……。なにしろスタンダールはタイトルの意味をどこにも残していないので、真相は定かではありません。いやこうだああだと論議かまびすしく騒ぎ立てるのもまた、後世に生きる凡人の役割といえるかもしれません。でも、当ブログの見解を述べるなら、そんなこたァどうでもエエじゃないか、と。考えても答えの定まらない話が、作家になるために何か役立つでしょうか。そんな作品周辺情報のトリビアはさておいて、作家志望者たる者が無心で味わい学ぶべきは、名作の本領たる小説世界こそなのです。未読の方は、ぜひご賞翫ください。

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