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「キッチュ」――言葉を深掘りする作家の炯眼

2020年02月21日 【小説を書く】

どこかで聞いた「言葉」、けれどどこでも目にしたことのない「世界」

たったひとつの言葉が、物語の多くを説き明かすということがあります。そのようなとき、言葉のもつ奥行きや広がりや可能性に私たちは目を瞠り、文学の奥深さを知り、そして自分もまた小説や詩を書いてみたいという衝動に駆られるのかもしれません。そうした優れた言葉との出会いは、運命的と呼ぶのが似つかわしいのではないでしょうか。なぜなら言葉は、丁寧に扱えば扱うほど、深く関われば関わるほど、私たちに新たな何かを教えてくれ、いつしか言葉との親密な関係が築かれる……やいなや、それまで未開だった境地は啓け(ひらけ)、未明だった一隅は強い光明に照らし出されるからです。ある作家にとって「キッチュ(ドイツ語:Kitsch)」は、まさにそんな言葉のひとつでした。

ところで「キッチュ」を辞典で引くと、「芸術気取りのまがいもの」「俗悪なもの」「いんちき」などとあります。まったくケンモホロロもいいところ、まるでダメ男並みの扱いです。ところがこの言葉、実際にはあまり字義どおりの悪い扱われ方をしません。「スノッブ」と呼べば鼻もちならない輩を揶揄することになりますが、「あいつってちょっとキッチュだよね」と人が言うときには、そこには淡い尊敬の念が匂います。意外と侮れないこの「キッチュ」、美術や文学のジャンルではしばしば着目されてきました。なぜかといえば、「キッチュ」の言葉が認知されるきっかけ自体に、ずばり大衆文化成立の土壌があり、「中産階級好み」という解釈により幅広い表現対象となってきたからです。現代ではファッション業界でもしばしば聞かれ、やはり“一周まわってどこか好感を呼ぶ”というニュアンスを含んだワードといえるでしょうか。

とはいえ言葉の意味に安住の姿勢は禁物。というか、本を書きたいと作家を目指しているなら、従来の意味合いどおりに受け取って満足せず、さらに解釈を深め広げたいところです。もとより、作家が言葉に作家ならではの「概念」を与えてこそ、小説、エッセイそのほかもろもろの創作物は色艶を増すというもの。では今回は、そんな先達の凄みに触れてみることにしましょう。

独自の「概念」をもつ言葉は独自の絵を描く

俗悪なもの(キッチュ)は続けざまに二つの感涙を呼びおこす。第一の涙はいう。芝生を駆けていく子供は何と美しいんだ!
第二の涙はいう。芝生を駆けていく子供に全人類と感激を共有できるのは何と素晴らしいんだろう!
この第二の涙こそ、俗悪(キッチュ)を俗悪(キッチュ)たらしめるのである。
世界のすべての人びとの兄弟愛はただ俗悪なもの(キッチュ)の上にのみ形成できるのである。

(ミラン・クンデラ作・千野栄一訳『存在の耐えられない軽さ』集英社/1998年)

チェコ生まれのミラン・クンデラは「キッチュ」の意味に非常にこだわった作家です。彼の代表作『存在の耐えられない軽さ』のなかでも、「キッチュ」は暗示的な場面にキーワードとして鏤められていました。主要人物のひとり、女性画家サビナはチェコからアメリカに渡ります。彼女の前で、かの国の上院議員が芝生を駆ける子を見て、これこそが幸福なのだと満足気に微笑みます。共産主義国から自由の国へやってきたサビナに、自由の国ならではの日常風景を紹介し悦に入っているわけですが、いかにも偽善的な空気が漂います。無理もありません。裏返せばその言葉には、共産主義国では芝生を駆ける子どもさえ見られないだろうという偏見が、深々と根づいているのですから。クンデラは、自分にうっとりと酔うようなこうした自己満足、自己完結の態度を「キッチュ」と呼んだのでした。

ミラン・クンデラは「キッチュ」に独自の概念を与え、小説のなかで重要なフレーズとして用いました。――しかし、ここで少し考えてみましょう。いうまでもなく言葉は意味を伴うものですが、「キッチュ」に独自の概念を与えるにあたり、クンデラは従来とはまったく違う意味をもつ言葉として好き勝手に焼き直したわけではありません。自分に酔うような自己満足、自己完結の態度、その核が「キッチュ」従来の「通俗的」「俗悪」の意味と同じ線上にあるのだと説いたのです。いわばクンデラは、画家がどんなモチーフも自分だけの絵として描いてしまうように、「キッチュ」という言葉を使って独自の風景を物語のなかに描きあげたのです。

クンデラが見せたこうした言葉の解釈は、センスに頼って一朝一夕になせるものではないのでしょう。悪意のない自己満足や自己完結の態度に感じる不快感とは、一種名状し難い不快さです。相手に悪気があるわけではないので、そこまで悪し様に言うことでもないし、あまりそこを責め過ぎても、逆にこちらが歪んで卑屈になっているだけなんじゃないか――。こうした思いに囚われることは、誰もが日常でけっこうあるはずです。誰かの一見屈託のない笑顔に、どういうわけかウソっぽさを感じること、あるはずです。そんな状況を、その“名状し難い不快感”を、さあ言葉にするとしたらいったいどんな言葉になるのか――? このような難題を深く掘り下げた結果、クンデラの前に出てきたのが「キッチュ」だったのでしょう。そして、私たちが学ぶべきはこの姿勢なのです。

本を書きたいなら待望したい、「言葉」との無二の出会いを――

過度に政治化された私たちの時代は、小説芸術とは何かを理解するのをやめてしまった。1980年、パリで、私の作品をテーマとするテレビでのパネルディスカッションがあった。その席でだれかが『冗談』のことを「スターリニズムへの一大告発」と呼んだ。私はすかさず言葉をはさんだ「あなたのいうスターリニズムは勘弁してください。『冗談』はラヴ・ストーリーなのです!

(関根日出男、中村猛・訳『冗談』まえがきより/みすず書房/2007年)

クンデラにはまた『冗談』という小説があります。舞台は共産党体制下のチェコ。前途有望な党員であった青年が、軽い気持ちで「トロッキー万歳!」と葉書に書いたことから人生を狂わせていく……という物語です。主人公はそうした想定外の人生のなかでも確かに恋はします。ですが、だからといって作家のいう額面どおり、この作品をラヴ・ストーリーと片づけることはできません。クンデラはここでも「キッチュ」の概念を描きあげています。たとえば、主人公が糾弾される場面。あれは親しい者同士の冗談なんだと説明しても、誰ひとり聞く耳をもちませんでした。人間は、しばしば自己の正当性のなかで生き、他の意見も考え方も排除します。そうした人々を、クンデラは「キッチュ」と呼びます。社会でも国家主義でもない、あくまで精神的な盲のなかで思考を停止させたまま生きる人間たちを「キッチュ」と呼んで批判したのです。

たったひとつの言葉から物語が生まれてくることがあります。言葉とは、ときにその背後に計り知れず深遠な奥行きをもち得るものです。作家になりたい、物語を書きたいと思う者ならば、言葉を、文章を構成するパーツとして見るのでなく、その存在性に生命を感じ、その息づかいに自らの鼓動を重ね、彼らが発する幽玄なる意味を探究する姿勢を具えたいところです。あなたとあるひとつの言葉とのあいだに、不意に共鳴・シンクロする瞬間が訪れるのを待ち、「言葉」を感じる器官を鋭敏に研ぎ澄ます旅をつづけること。それが作家になるための第一歩といえるのかもしれません。

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