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「動物」は物語のなかでいかに生くべきか

2020年04月23日 【小説を書く】

かわいいからOK? いやいや、実はアンタッチャブルな動物キャラクター

物語において犬や猫を描くことは、ふたつの意味で禁じ手であるといわれます。ひとつは、“犬猫かわいさ”を借りて訴求力が増す分、評価が差し引かれがちになるという点。もうひとつは、犬猫物語は先達の手によりすでに無数に存在するため、ハードルが格段に高くなるという点。手っ取り早くいうと、犬猫物語には安易に手を出さないほうが無難だということです。もとより犬猫に限ったことではありませんが、小説を書くにも絵本や童話を書くにも、動物全般の取り扱いには入念な構想と細心の注意が必須です。が、どうやらそのあたりの認識が甘く、ついつい草原のウサギさんや森のクマさんを作品に招き入れてしまう作家志望者は少なくないようです。

動物を主体としてに扱う物語では、実のところその手法は限られています。まず、シャルル・ペローの『長靴をはいた猫』はじめ多くの寓話では、「擬人化」という手法が主に用いられています。つづいて、アンナ・シュウエルの『黒馬物語』のように、動物が一人称でみずからの半生を語るという作品が登場しました。そしてアーネスト・シートンの『狼王ロボ』は、緻密な自然観察に基づいて著された写実的な動物の物語でした。動物を主役とした過去の物語は、ほとんどこの三つの手法を軸に描かれてきたといっても過言ではありません。

ところがそこに、変種が現れます。明治後期の日本――そう、ご存じ夏目漱石の『吾輩は猫である』です。この作品は飼い猫を語り手に人間模様を浮かび上がらせました。一種の擬人化といえないこともないのですが、飼い猫として猫らしく暮らしながら、いっぽうで天上人のごとく皮肉っぽく人の世を眺めていたのですから、吾輩はなかなかの異彩を放っていました。ただし、この作品とてE・T・A・ホフマンの『牡猫ムルの人生観』を下敷きとしていることは、以前当ブログでもお話したとおりです(「古代から未来へ『擬人化』世界を巡る」)。

伝説の動物コミックはやっぱり偉大だった!

1987年のこと、一作の動物漫画が発表され瞬く間に日本社会を席巻しました。シベリアン・ハスキーと北大獣医学部の一大ブームを巻き起こした伝説のコミック、『動物のお医者さん』(佐々木倫子・著)です。『動物のお医者さん』には明朗なユーモアが弾けているばかりか、名作の風格が具わっていました。何が名作って、誰も考えず誰もなし得なかった存在感を、作中の動物たちに与えたという点で比類ないのです。それは擬人化でもなければ動物を語り手にする手法でもありません。『動物のお医者さん』では、人間と動物が対等かつ同等に、それぞれの立場でそれぞれの役割を担い、ひとつの作品を創りあげているのです。それを成功に導いたのが、動物の内なる声を、読者にしか見えない形で「人語化」「セリフ化」するという佐々木倫子の表現手法でした。

確かに佐々木には「コミック」というジャンル上の強みもあります。動物たちの「人語」は手書きでこっそり画面に書き込めるし、動物キャラクターを写実的に描くことで、際立った新たな存在感を演出することが可能となりました。ところが、この手法をテキストのみで構成する「小説」に持ち込もうとすると、途端に話は難しくなってきます。擬人化メソッドで描く寓話や童話とは異なる視点が求められるし、いっそう緻密な計算が必要となってくることは容易に想像されます。ストーリーにしても、本格小説を目指すのならば、いたいけな動物頼みの感涙モノに堕するのも避けたいところです。その“どストレート”な訴求力に陥落する人が多いという甘い誘惑に流されてはいけません。でも、じゃあどうすればいいのかと。このままでは、動物にはおいそれと重要な役割を与えられないではありませんか。動物物語を描こう! それをもって作家になってやろう! と願う人たちにとって、これは悩ましい事態です。

動物を作品に活かす最良の道は「手法」の先にある

「なにか本気でとりつかれるってことはさ、みんなが考えてるほど、ばかげたことじゃあないと思うよ」
「そうかい?」
「うん」
とハツカネズミ。
「そりゃもちろん、だいたいが時間のむだ、物笑いのたね、役立たずのごみでおわっちゃうだろうけど、でも、きみが本気をつづけるなら、いずれなにかちょっとしたことで、むくわれることはあるんだと思う」

(いしいしんじ著『トリツカレ男』新潮社/2006年)

『トリツカレ男』は、ひとたび何かに夢中になるやもうそれひと筋、人呼んで「トリツカレ男」の脇目も振らぬ恋を描いています。トリツカレ男には、ただひとり彼を理解してくれる相棒・友人がいます。人間の言葉を話すハツカネズミです。ハツカネズミが言葉を話すからといって、それは寓話的な擬人化とは違っています。ハツカネズミは、トリツカレ男がハツカネズミの飼育にとりつかれたときに生まれた天才ネズミなのです。トリツカレ男がとりつかれるジャンルに決まりはありません。ある日突然彼にとりつくそれらは、三段跳びや競歩なら記録への挑戦、外国語なら技能修得という点でまだ理解できるというものですが、ナッツ投げや使い古しの封筒集めとなってくると、その目途(もくと:めあて、目的)は謎めいてきます。しかしそれぞトリツカレ男のトリツカレ男たる所以で、とりつかれる対象に不利or有利、評価されるor評価されないの判断基準を彼はもち合わせません。そんなトリツカレ男がとりつかれる恋がどんなかといえば、やはりそれは純粋無垢の極致の塊。この作品を、究極のラブストーリーと呼んでよいかどうかわかりません(異性を対象に「とりつく」「とりつかれる」からといってストーキングともまた違う)。けれど“物事にとりつかれる”というその一事を極端に肥大化して描いた本作は、純粋で無欲であることの意味をひたすら読み手に問うてきます。その存在を理解し見守るのが、人語を解し話す一匹のハツカネズミなのでした。

『トリツカレ男』のハツカネズミは、動物が喋り人間のパートナーを務めるという点で確かに擬人化の派生型といえるのですが、動物が人間の「真の友」たり得るという解釈を表現する形として、新しさを感じさせてくれます。19世紀のイギリスの作家ジョージ・エリオットの言葉「動物ほど気持ちのよい友だちはいない。彼らは質問もしなければ、批判もしない」という稀有な存在性を、ハツカネズミは具現化しようと挑戦し、結果、成功した例といえるでしょう。それは、形式や手法、メソッドなどの枠組みを超えた「キャラクター創出」を目指した書き手の努力の賜物です。動物を描くとき、もちろん手法は大事ですが、安直に擬人化してみたり、漱石先生につづけと語り手役を割り当ててみたりというのは、実際、作家になりたいと冀う(こいねがう)大多数の人が真っ先に飛びつく敷居の低い創作アプローチといえます。小説などの作中において動物を活かすには、まず、彼ら動物が作者にとって、また主要な登場人物にとって、いかなる存在でありどのように関わっていくか、そのイメージを明確化しておく必要があります。その上で、キャラクターとして肉づけしていけば、動物である必然性も無理なくまとうことができ、まさにそのときこそ、あなたの描く動物たちは物語のなかで真に生き、本当の言葉を語りかけてくる存在となってくれるのでしょう。

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