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文学的モラルが宿る場所

2020年11月10日 【小説を書く】

本を書く前に知っておきたい「モラル」の歴史

「文学的モラル(倫理・道徳)」といえば、そのむかしに問われたのは、文字どおり作品の内容のモラルでした。背景を説明しておくと、時代はフランス革命後の19世紀、作家は不特定多数の読者を得ることになり……というと、それ以前は特定の読者しかいなかったのかと疑問に思われるかもしれませんが、何を隠そう実はそうだったのです。そもそも今日当たり前となっている「作家」と「読者」の関係ができあがったのは、フランス革命収束後なのです。それまでは小説家も詩人も画家も、貴族や資産家の庇護を受け、彼らが開くサロンを泳ぎまわりながら芸術活動に励んでいました。つまりその時代、作家にとって読者とは、その姿形が想像できる均質な存在であったのです。それが封建的な階級制度が崩壊したフランス革命以後になると、作家は庇護者を失い、生活のために世の一般読者に向けて出版せざるを得なくなります。こうして彼らは見知らぬ大勢の読者に相対することになったのでした。ところがこの新たな読者たち、勝手の知れた寛容なかつての読者(才能を買ってくれる庇護者)と違い、やたらと非難の手紙を寄こしたり、あなたの描く主人公の行動にはモラルがないなどとまくしたてたりして作家たちを悩ませはじめます。かのバルザックやスタンダールですら例外ではなく、しかるべき反論でいちいち対処しなければならなかったといいます。「作家 vs. 読者」という図式の「モラル」草創期の幕開けです。

それから150余年が経った現代、名だたる巨匠を悩ませた文学をめぐるモラルの見解にも変化が生じました。そして今や、意外というべきか、小説や詩などの芸術作品には“何を書いてもよい”と信じ込んでいる人が思いのほか多いのです。ただ、それも無理はないことなのかもしれません。親友を裏切って死に追いやったり、義父が新妻を手篭めにしたりと、確かに文学は芸術の名のもとにモラルなき世界を描き尽くしてきた経緯があります。それを戒めるでも奨励するでもなくモラル破壊を作品に盛り込み、「人間」を描くこともまた文学の一存在意義ということもできるでしょう。ただ、ただこれだけはゼッタイやっちゃダメな、古今東西変わりない掟がいくつかあります。何かおわかりになるでしょうか。そのひとつが剽窃です。平たくいうとパクリ。特に現代はネット民の自警団のような社会全体がもつ強力な自浄作用により、作家になりたい、自分の書きたいことを書きたいと、作家志望者が表現の自由に胸ふくらませ創作に臨んでも、ネット上の厳格な剽窃チェッカーによって、力作・名作が陽の目を見ないばかりか、書き手のプライバシーまでが晒しに晒され血祭りにあげられることもあり得る時代なのです。これと同じように、本を出したいと志すならば、「書くべきこと」「書いてはいけないこと」「書くに注意を要すること」について、よくよく理解しておかなければなりません。

「書かれる側の権利」について考えてみる

文学的モラルとは、作家の意識や信念に関わる部分に存在するものです。プロの作家であれば、商業性に完全に目をつぶるわけにはいかないにせよ、出版社や社会的トレンドに迎合せず、また無用に反発もすることもなく、つまりいかなる外圧にも影響されることなく、創作・執筆に臨む姿勢にこそ正しきモラルが宿るはずです。しかし一方で、この種のモラルさえ貫けば何を書いてもよいかといえば、むろんそんなことはないわけです。ある意味でもっと低次で原初的なモラルがあるはずです。作家になりたい、本を書きたいと切磋琢磨する者が特に注意しなければならないのが、この、いうなれば「モラル要件」なのです。

書き手が注意を要する文学的モラルといったら、人様の「権利」を侵害しないということに尽きます。権利とは、プライバシー権、著作権、パブリシティ権などが挙げられます。たとえば、自分の亡父の伝記だからと好き勝手に描くことはできず、実在人物にモデルがいれば当人に、故人であればその遺族への相応の対応が必要です。他の作品のキャラクターを勝手に登場させるのはご法度ですし、引用はルールに則って行う必要があります。楽曲の歌詞などは一括管理している団体に使用料を払わなければならず、とある野球選手の熱烈ファンだからといって許可なく主人公に採用することもできません。……こう書くと、なんだ小説を書くってずいぶん窮屈だなと不平をこぼすかもしれませんが、そう、「ものを書く」とは、創作とは、決して自由気ままで自分勝手な営為ではないのです。確かに、書く側には憲法で保障された表現の自由があります。しかし、書かれる側にもそれを拒否する権利があって、率直にいって「書く自由 < 書かれる者の権利」という図式の正当性がおおむね認められています。「個」を保護し尊ぶ社会的感覚が今後ますます強まることも疑いようがありません。

それでもまだ、「書く自由」はいったいどうなるの――と腑に落ちない方はいらっしゃるでしょう。なので、もう少しこの問題を掘り下げてみたいと思います。受け身であるところの権利者が重視されるのはなぜでしょうか。それはまさに受け身であるがゆえの配慮といえましょう。たとえば、誰かをモデルにした登場人物を作家が主観で描けば、当人や関係者が傷つくことも考えられます。花束を捧げ栄光の座に祀り上げたとしても、モデルとなった人はそんな扱いは御免蒙ると思うかもしれません。そもそもが、周囲からいらぬ注目など浴びたくないという人がほとんどでしょう。それはなぜか? 受け身であるがゆえに、一方的に生活が脅かされかねない事態を招くおそれがあるからなのです。さらに、書く自由、言論の自由の主張一点張りのもとには、ヘイトスピーチさえ発生しかねません。せっかくの表現の自由、言論の自由だのに、もうこんなのたくさんだ……とうんざりするようなより大きな争いの火種になるおそれもあるのです。つまり「書く自由」とは、一方的に他者を傷つけたり、他者の生活を脅かしたりしないという大前提のルールのもと、ようやく謳歌できる権利であるということなのです。もちろん、これは誰にとってもデリケートな人権に関する話であり、本稿のこの考え方に対し「いやそうではない」と論じられる方もいることでしょう。それはそれでその方の信条ですから、本稿筆者がとやかく言うことではないということも、ここでは付け加えておく必要があると考えます。

作家が尊ぶべき真のモラルとは

さて、19世紀フランスの詩人ボードレールの一節を引いて本稿を結ぶとしましょう。一般読者のモラル攻撃にあった彼は、こんな詩を残しています。

秋の日の暮方は何と身に沁み入ることだ。苦しいまでに身に沁みる。何故と言つて、朧ろげではあるが強さには事欠かぬ、えも言はれぬ或る感覚があるものだから。また、「無窮」の刃くらゐ鋭い刃はないものだから。
 (中略)
今や空の深さが私を自失せしめる。空の透明さが私をいら立たせる。海の無感覚、風景の不動が私を裏切る。あゝ、いつまでも悩まなければならぬのか。いつまでも美から逃れなければならぬのか。自然よ、無情の魔女よ、恆に(つねに)勝ちほこつた敵よ、私を放してくれ! 私の願望と私の誇りとを唆かすのを止めてくれ! 美の研究は一つの決闘だ、そこに芸術家は、打ち敗かされる前に怖れの叫びを挙げてゐるのだ。

(ボードレール作・富永太郎訳『芸術家の告白祈祷』/『富永太郎詩集』所収/思潮社/1984年 ルビは引用者による)

芸術家の懊悩と覚悟の末に生まれた作品を、モラルがないとこきおろされたボードレール。しかし非難を浴びながら、己の創造的信念を貫いた彼は、世界最高の詩人の一人に数えられ、今日に至るまで多くの後進たちに影響を与える存在となっています。作家にとって真の、根本的なモラルとは、人目につかなければいい、バレなければいい、法をかわすことができればいいなどという結果オーライな話でもなければ、独善的な主張のもとに一方通行で突き通される類のものでもなく、その創作の心に根差しているものであると教えてくれる一節です。そう、作品の“心”はあだおろそかにはできないはず――ですね? 未来を嘱望される作家諸氏なら、ここで深く頷いてくださることと信じています。

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