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書けないなら、書かなくていい──作家になるための必要な時間

2022年05月30日 【小説を書く】

「書けない」は試練でありチャンスでもある

小説家になりたい、自作の本を出版したいと夢抱く作家志望者のなかには、学校へ通いながら、仕事をもちながら、あるいは人生のすべてを賭けてその実現に挑む人もいるでしょう。しかし当然ですが、たとえ“ありあまる才能”があったとしても、もの書きとしてプロの道へ進むことは容易ではありません。数多の成功者の道理と同じく、成功者が振り返れば一定のセオリーがあっても、セオリーどおりに辿れば誰もが必ず成功するかといえば、そうは甘くはないのです。だからこそ、その道程はつらい。小説家や作家を目指すとすれば、なかなか認められない、つらい、やめようか、でも諦められない……そうしたジレンマは多くの人が経験するところでしょう。けれど、諦めればそこですべて終わってしまう。これもまた当然なこととわかっているから諦めきれない、だからつらい……。エンドレスです。

文章を書く、物語を書くことが好きな人にとって本当につらいのは、書きたいのに書けない、という状態です。その状態をさらに分解すると、書けないのは、書きたいテーマがあるのに思うように書けない、書きたいものがわからない、いやそもそも才能がゼロなのか──といろいろな妄念や失意に雁字搦めになってくるというものです。つらいですね。いずれにせよ、そんなときに大事なのは、悶々と悩んで時間を費やさないことです。筆がピクとも動かない状況はむしろ、「書きたい!」という気持ちの原点に帰る、あなた自身の創作の源泉を見つめ直すよい機会と捉えましょう。ほら、思い返してみてください。ただ書くことが好きで楽しかったあの日、思うまま筆を走らせていたあの日、自分もまた文章で何者かになれるのではと迷わず夢想できたあの日。それは「書くこと」という「自己表現」を通じて、「自己実現」や「自己肯定」の精神的・知的な手応えを得て、自発的な文章創作にどんどん目覚めていった日々です。つまり、それがあなたの創作への意志がはっきりと発露した瞬間だったのです。そこに立ち返る方法論について、今回は考えてみたいと思います。

書けない、書かない──それぞれの作家たちも過ごしたその時間

名だたる作家だって、書けないという塗炭の苦しみ、書くことや、もっと根深い「生きること」に対するジレンマを幾度となく味わってきたことでしょう。太宰治が薬物中毒で入院中、聖書しか読まなかったのは有名な話ですが、はたして彼は自分の状態を憂え宗教に救いを求めたのでしょうか。いえ、太宰ファンだからこそ言えることでもありますが、そんな殊勝な心がけであったとはとても思えません。きっかけはそうであったとしても、聖書を読むなかで太宰治はやっぱり太宰治に帰ってきたのです。文芸評論家・奥野健男は『太宰治論』で、太宰にとって創作は、彼を監視している「自己の中の他者」に対する復讐だったと述べています。実際、太宰が『人間失格』を構想したのはこの入院中であったといわれています。神の教えと人間失格物語の構想、いやぁ……相容れませんよね。太宰自身の内部の「他者」とは、いったい何者なのでしょう。少なくとも、信仰に目覚める資質を有する者ではない──。聖書を読み耽った太宰は逆に、そのことをしかと確認したのではなかったでしょうか。つまり「書く」のではなしに「読む」ことで、『人間失格』の下地、いや『人間失格』を書く自分というものをつくったといえそうです。38歳にして心中という形で命を絶った太宰治。自己破滅・自殺への衝動は、作家としての彼の必然的な成り行きであったのかもしれません。

いっぽう、数々の文学賞に輝き、ストーリーテラーとして不動の地位を占めた現代の作家宮本輝は、“書けないときに書いた作家”のひとりです。といって、よいものを書こうと発奮したわけではないようです。宮本輝は多作で、創作の引き出しは数限りないようにも見えますが、ポンポンと気軽に出し入れできる引き出しをもっていたわけではなかった様子です。ときには一行一文字すら容易に書けないスランプに悩まされる、書ける材料が底をついたと絶望に陥る──そこで彼がしたことは、頭を抱えて原稿から遠ざかることではなく、一字一字水気のない雑巾を絞るように無理矢理でも書きつづけることでした。一字が一行になりやっと一枚になる。それは絶望的な作業ですが、書けないというときに何であれ「書くこと」で動き出すと彼は信じていたようです。そしてそれを可能せしめたのも、名文を書こうと無理をしないことだったのです。NHKラジオのインタビューで、宮本このように語っています。

名文を書こうとして無理にうたっていたんです。読み返してみると、そういうところがたくさんありました。カラオケでも、君は歌をうたわないほうがいいよっていう人が、歌い上げたりしますよね、『マイウェイ』とか(笑)。そういうことはしないほうがよかったんです。

NHKラジオ 読むらじる。

さて、宮本が作家を志したのは20代も後半。それまでサラリーマン生活を送っていた彼は、25歳のころ、突然深刻な状態に陥ります。動悸やめまいが治まらず、人混みを歩けず乗り物にも乗れない。当時その病名はありませんでしたが、いまでいうパニック障害でした。そんなある日、一軒の書店に入ると、文芸誌を手に取り巻頭に掲載されていた短編小説を読みはじめます。そしてそれが、彼に不思議な啓示を与えたのでした。文芸誌を閉じたとき、自分なら100倍おもしろい小説を一晩で書ける──と。それが宮本輝という小説家が誕生した瞬間でした。父が破産し母が自殺を図り、悲惨な暮らしのなかで押し入れにこもって本を読みつづけたという宮本輝。その読書の蓄積で培った審美眼が道を拓いたことはいうまでもありません。

書くことから遠ざかる──それは“己の認める創作”精練のとき

貧しい家から売られ、裕福な養家で蕩尽の限りを尽くしたかと思えば無一文のどん底生活に陥りと、有為転変の半生を送った詩人の金子光晴には、何年も詩から遠ざかった時期がありました。2冊目の詩集『こがね蟲』で脚光を浴びたのも束の間、関東大震災によって先行きが見失われ、好きな女と結婚したのはよかったが生活は困窮、奔放な妻の行動に苦悩し、思いあまって国外脱出を図るもそこには悲惨窮乏のあてどない放浪しかありませんでした。そんなこんなで詩は金子から遠ざかり、金子もみずから詩から離れていきました。後年、思い出すのも嫌だと語っていた足掛け5年におよぶ放浪生活、その間、詩を書こうともしなかった金子は、戦争へと向かう時代の空気のなかで魑魅魍魎のごとく蠢く人間たちと、列強国に踏み躙られるままのアジアの貧しい国々のありさまをつぶさに見ます。そうした壮絶な日々を経たのち、不意に、詩は金子光晴のもとに帰ってきたのでした。

自作の詩集が詩壇の注目を集めたのち、金子光晴は試練に晒されました。それは日々の生活の試練であり、生きるための試練であり、また、己が真に書きたいもの、書かなければいけないものに眼を啓いていくための試練でした。誰かに認められたいと思うのは、プロの作家を目指すならば当然のこと。しかし、認められようするための創作活動は、本当に書きたい、書かなければいけない作品への道と軌を一にするとは限りません。書けない? だったらいっそ勇気をもって書かないでいてみましょう。その代わり、読むのです。あるいは、宮本輝のように一字一句ひたすら書いていくことも一法でしょう。ただそのときはけっして美文を狙わないこと。なんにせよひとついえるのは、作家を志すあなたは、「書けない」という状態を恐れるべきではないということ。そのつらい時間こそがあなたをプロの作家へと育てていく、もしかしたら恩寵であるかもしれないのですから。

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