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平易なのに深い文章を書くトレーニング

2022年11月14日 【小説を書く】

さすがと手を打つ高弟・曾良の「覚書」

「曾良や、果てしなく高いね、この石段は…」「はい師匠…」「しかしこれを昇りきれば山寺だ、もうひと踏ん張りだ!」「はい師匠!」──なんて会話は「奥の細道」の道中では交わされなかったかもしれません。何たって「交通の便」なる言葉はおろかその概念すらない時代、当時の人々は音に聞こえた健脚です。それが芭蕉、曾良のコンビとくればなおさらのこと。その曾良といえば、奥州の旅に随行した際の模様を『随行日記』に残しており、山寺のくだりにはこうあります。

天気能。辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ 、立石寺へ趣。清風より馬ニテ館岡迄 被レ送ル。尾花沢。二リ、元飯田。一リ、館岡。一リ、六田 (山形へ三リ半、馬次間ニ内蔵ニ逢)。二リよ、天童。一リ半ニ近シ、山寺(宿預リ坊。其日、山上・山下巡礼終ル )。

(河合曾良『随行日記』より)

この『随行日記』、日記と題したつまりは覚書なのですが、平明さこれに極まれりの簡潔さで、ドイツ文学者の池内紀は曾良のこの旅日記を高く評価しています。無論、覚書と小説やエッセイの文章とは書く目的も方法も異なるわけですが、だからといって曾良のこの簡潔さに学ぶものがないと思うのは早計です。旅路のメモにしても人はついつい本筋を外れた余計な書き込みに走りがちなもの。無駄なく要点を押さえテンポよく書き綴った曾良の旅日記は、ときおり晴れた空を見上げながら道行く旅人の姿が、その呼吸を感じさせるかのように浮かび上がってきます。もはや単なるメモ書きではない、『奥の細道』と一体となったこれもまた一種の紀行文といってよいでしょう。

「筆の多弁」は罠、誤解多き「平易な表現」

小説を書くにもエッセイを書くにも、平易な表現に徹することの大切さは多くの人が認識するところでしょう。しかしながら、作家を志し語彙や知識がどんどん豊富になっていく過程にある人ほど、華美な修飾や難解な表現を用いがちになる傾向があります。花の美しさひとつ描写するにも、花弁は清浄な光輝を放ち香りは馥郁と鼻腔を愛撫するように擽(くすぐ)り……といった調子で、自分の文章に酔い痴れる当人の心地よさとは裏腹に、読み手を居眠りに誘う文章表現は往々にして見られるものです。

逆に平易簡潔な文章を目指すにしても、簡単な言葉をただ並べればよいというわけではありません。「朝が来た。さわやかな朝だ。僕はすぐに起き、家族に笑顔で『おはよう』と挨拶をした」と行動や思考をだらだらとなぞるようでは、文章の味わいも情感も失われてしまいます。作家になりたいあなたが“本物の平易な文章”を手中に収めようと思うのなら、それには相応の心得が必要なのです。

平易な一筆とは鑿(のみ)の一刀

平易で簡潔で、しかも優れた文章を学ぶのに最適な作家といえば、そう、みんな大好き我らが太宰治です。太宰先生にはこれまで当ブログでも幾度となくご登場いただいているわけですが、それだけ学ぶところの多い作家ということでしょう。一般人には手も足も出ない高潔な佇まいというよりかは、我々と同じ地平に立って、そのへんの居酒屋の片隅でひとり徳利でも傾けていそうなあの雰囲気は、いつだって“これからの書き手”に勇気をくれるものです。と、ここで取り上げるテキストは太宰作品のど真ん中、誰もが知っている『人間失格』。何といってもこの小説は、本当の自分を曝け出せない、人と心を通わせることのできない、屈折した心と半生を主人公の一人称で告白する物語ですから、一人称語りの朴訥さのなかに平易な表現を学ぶには打ってつけなのです。本心を晒せない主人公の言い淀むかのような語りの奥には、作家の入念な計算と冷徹な眼があることがわかります。

恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。

(太宰治著『人間失格』新潮社/2006年)

たとえば、第一の手記書き出しのこの有名な文章を、「恥の多い」とはどのような意味かを、あるいは自分の出自を前もって縷々説明したらどうなるでしょう。自分が生まれたのは東北の片田舎で、兄弟は何人で両親はこんな人、かわいがられていないわけではなかったけれど、自分のほうでは愛情も愛着も希薄な半端人間であった……などと書いてあったら。言い淀むような独白の気配はたちまち失われ、主人公の人物像も小説の主題もグラグラと揺らいでしまい、漱石の『こゝろ』と発行部数を争うほどの息の長い人気は博さなかったはずです。平易な文章とは、読みやすい、理解しやすいわけですが、その分、ひとつの単語、ひとつの文章に込められる意味合い(=情報量)は少なくなります。だからこそついついだらだらと冗長な流れに陥りやすいのです。太宰に学ぶべき平易な文章の真髄とは、簡潔でありながら情報量を失わないこと、濃密な情報量を内包しつつも難解な単語に頼らないこと。シンプルな数行の奥行だけで読む者を魅せるその技は、あたかも至高の宮大工による釘や接着剤を使わぬ日本建築のよう。優れた筆とは、まさしく“主題を彫り上げる鑿の一刀”といえましょう。

独白の極致──激しい感情を表現する「平易さ」とは

平易でありながら豊かな表現力を身につけるのに有効なトレーニングがあります。それは「独白」に着目すること。強く激しい感情を、迫真性をもって、読み手の感動を誘うように表現することはなかなかに難しいものです。「愛してる!」「憎い!」と一語を強調すれば、その意図は伝えられるかもしれません。けれど、そんな凝縮的な一語に任せて終わっては、感情の強さは表現できても迫真性以上の熱量は伝わらず、読み手を共感させるだけの粘り強い牽引力は欠いてしまいます。舞台演劇であれば「憎いんだあ!!」と叫びつつ、それを口調や表情や全身をフルに用いて表現することでしょう。同じように文章でも、言葉の結集力を格段に高めることが不可欠です。当然、これを平易な文章で行うのは想像を絶する離れ業。さあ、太宰先生の技をとくと拝見しましょう。ある事件により死への欲求が極限に達した主人公の心の叫びです。

死にたい、いっそ、死にたい、もう取返しがつかないんだ、どんな事をしても、何をしても、駄目になるだけなんだ、恥の上塗りをするだけなんだ、自転車で青葉の滝など、自分には望むべくも無いんだ、ただけがらわしい罪にあさましい罪が重なり、苦悩が増大し強烈になるだけなんだ、死にたい、死ななければならぬ、生きているのが罪の種なのだ、などと思いつめても、やっぱり、アパートと薬屋の間を半狂乱の姿で往復しているばかりなのでした。

(同上)

この一節に、説明的なふつうの文章を並べてみれば、文豪のレベルの違いが浮かび上がります。たとえば、

死にたい、いっそ、死にたい、自分は生きていても、そういうつもりはなくとも人に不幸を撒き散らすだけなんだ、存在が罪なんだ、涙を振り絞っても、血を吐くような苦しみを経験しても、何ひとつむくわれることなんてないんだ、と、この世は自分にとって安住の地でないことに今更のようにきづいても、ただそれで手をこまねいているだけなのでした。

と書いたらどうでしょう。一見、たいして変わりないようでいて、実は歴然とした差、文章の凡庸さが露呈しています。迫力がまるで違うのです。テクニカルな解説をすると、太宰の文章では「死にたい」と思う「自分」の心情が吐露されると同時に、その心情自体が「自転車で青葉の滝」「アパートと薬屋の間」「半狂乱の姿で往復」といった彼の実世界と直接に結びつくワードと交錯し圧倒的なリアリティを醸しているのです。いっぽうサンプル文のほうは、「朝が来た。さわやかな朝だ。僕はすぐに──」よりはよほど上出来な文章ですが、やはり太宰の文章と比較すると平板で、陳腐な心情描写の連続がむしろリアリティを遠ざけてしまっているのです。これでは優れた平易な表現とは到底呼べません。

「うれしい」「悲しい」「苦しい」という感情は誰もがもつものです。あなたがもし作家になりたいと思うのであれば、太宰先生からの課題と思って、ひとつ、仮の「うれしい」「悲しい」「苦しい」状況を設定し、激しい感情を独白体で表現してみてください。そんな鍛錬を経たのちに描く長文の一作が、まだ見ぬ名作となるのだと胸に強く念じて──。

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