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※本稿記事の元原稿作成は、2022年ロシアのウクライナ侵攻以前の2021年9月です。文中「ロシア文学」を讃える表現が多数見られますが、現在のロシア国政を礼讃する意図は一切ございません。
ロシア文学。果てしなく広大な土地と厳寒の過酷さを思わせる作品世界。強大な皇帝が君臨する街や貴族社会のきらびやかな舞台背景。子どものころ、世界文学全集を紐解けば、ロシアの文豪が描く小説にはひときわ異彩を感じたものでした。比較的見慣れた英語圏の姓名とは明らかに異なる響き──プーシキン、チェーホフ、ゴーリキー、ソルジェニーツィン、マヤコフスキー……、綺羅星のごとき名を並べるロシアの作家たちが世界の文学に与えた影響は多大なものがあります。日本のそれがどうにも小粒に感じられるほどに、「文豪」の名にふさわしい大作家が居並ぶロシア文学史ですが、わけても「黄金の時代」と呼ばれた世紀があります。それは19世紀。ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフ──そんな文豪オブ文豪ともいうべき偉大な作家たちを生んだ19世紀ロシアとは、いったいどのような時代だったのでしょうか。
前段として少し歴史の話をしましょう。フランス国王ルイ16世王妃、かのマリー・アントワネットが断頭台の露と消えたフランス革命以降、ヨーロッパでは急速にナショナリズムの気運が高まっていきました。ヨーロッパ全体の秩序を図る目的でウィーン体制が敷かれ、欧州全体が近代国家へと向かうべく、平坦ではない道のりを歩みはじめていったのです。当時の他国の文学を見れば、フランスではスタンダール、ユゴー、バルザックらが登場し、ロマン主義の大きなうねりが起きました。そうして各国にナショナリズムや自由主義が広がるなかで、国家の後進性を露わにしたのが19世紀のロシアでした。農奴制に蹂躙される農民たち、貧困にあえぐ庶民。ロシア文学黄金時代の先駆者プーシキンが祖国のありさまを嘆き、腐敗し疲弊し、革命という大きな嵐の目が渦巻きはじめる──この激動の時代が19世紀ロシアです。そんな祖国にあって、ドストエフスキーは人間性回復への祈りを込めて『罪と罰』を描き、トルストイは長い戦争を軸とした長大な人間ドラマ『戦争と平和』を紡ぎあげました。そしてそんなふたりに先駆けて登場したのが、ニコライ・ゴーゴリだったのです。
あまり読書に馴染みのない人からすると、クラクラするほどに分厚いドストエフスキーやトルストイの本。厚いばかりか、一冊では収まらないので複数に分冊されているものばかりです。いっぽう、ゴーゴリ作品はそのほとんどが短編。また、物語の主役としてゴーゴリが選んだのは、不正が横行する歪んだ社会の機構のなかで息も絶え絶えに生き抜く庶民、また彼らより薄皮一枚だけアッパーにいる小役人や商人であり、彼らの悲惨や罪を、ゴーゴリはうら寂しさを滲ませた皮肉で滑稽な一幕として描いたのでした。芥川龍之介や後藤明生はゴーゴリにこの上ない尊敬を捧げ、彼の描く「喜劇」をこよなく愛しました。後藤は、喜劇とはなぜだかわからないからおかしいのだ、というふうに語っていましたが、実際、なぜおかしいのかわからないが、いずこからともしれず“おかしさ”が込み上げてくる、それが、ゴーゴリの喜劇の魅力なのです。
ある省のある局に……しかし何局とはっきり言わないほうがいいだろう。おしなべて官房とか連隊とか事務局とか、一口にいえば、あらゆる役人階級ほど怒りっぽいものはないからである。今日では総じて自分一個が侮辱されても、なんぞやその社会全体が侮辱されでもしたように思いこむ癖がある。(中略)さて、そのある局に、【一人の官吏】が勤めていた──官吏、といったところで、大して立派な役柄の者ではなかった。背丈がちんちくりんで、顔には薄あばたがあり、髪の毛は赤ちゃけ、それに目がしょぼしょぼしていて、額がすこし禿げあがり、頬の両側には小皺が寄って、どうもその顔いろはいわゆる痔もちらしい……しかし、これはどうも仕方がない! 罪はペテルブルグの気候にあるのだから。
(ニコライ・ゴーゴリ著・平井肇訳『外套』/『外套・鼻』収録/岩波書店/1965年)
小品ながら傑作との呼び声も高い『外套』。「ちんちくりん」の官吏である主人公の名はアカーキイ・アカーキエヴィッチ。その名の由来からしてうだつのあがらない生涯を約束されたかのような彼は、案の定うらぶれた下級役人となって、つましいが上にもつましい生活を送っています。もちろん高価な暖かい外套などもち得るはずがありません。アカーキイ・アカーキエヴィッチは、ペテルブルグの寒い冬を長年着古したボロボロの外套でどうにかやり過ごしていたのですが、あるとき、修繕しようにももうどうにもならない事態に直面し、新調するしか道はなくなります。苦労の末、幸運も手伝ってどうにか資金を工面でき、すばらしい外套が仕立て上がって、アカーキイ・アカーキエヴィッチはもう夢見心地。新しい外套を着て勤める役所へ行くと、皆は驚き、賞賛と世辞が飛び交い、しまいには祝杯の宴さえ催されることに。ところがその帰り道、いまや彼のすべてになったといっても過言ではない大切な外套を、なんと追剥にむしり取られてしまうのです。アカーキイ・アカーキエヴィッチにとって、その衝撃がどれほどのものであったかといえば、悲嘆のあまりついには死んでしまうほどでした。
しかし物語はそこでは終わりません。アカーキイ・アカーキエヴィッチの絶望と無念は、彼を安らかに眠らせてはくれませんでした。幽霊となったアカーキイ・アカーキエヴィッチは、夜な夜なペテルブルグの街を彷徨い、誰彼なしに外套を奪い、最後は、追剥被害の捜査を懇願する彼を鼻であしらい非情な態度で追い返した役所の高官を襲うのです。
「ああ、とうとう今度は貴様だな! いよいよ貴様の、この、襟首をおさえたぞ! おれには貴様の外套が要るんだ! 貴様はおれの外套の世話をするどころか、かえって叱り飛ばしやがって。──さあ、今度こそ、自分のをこっちへよこせ!」
(同上)
こうして、アカーキイ・アカーキエヴィッチは憎き高官の豪奢な外套を強奪します。しかし、恨みを晴らしたアカーキイ・アカーキエヴィッチが昇天するかと思いきや、そうではありませんでした。ここでは伏せますが、ラストには、物語の締めくくりに立ちはだかるかのような、謎めいて圧倒的なもう1シーンがあります。論壇においてもさまざまな解釈を生むこのラストシーンは、ぜひ、小説家になりたいと日夜努力する皆さんにも自身で読み解いていただきたいと思います。
さて、ニコライ・ゴーゴリの偉大さとは何であるのか?──それは、社会の深い闇と悲惨な人間の姿を「喜劇」として描いたことではないでしょうか。繫栄の影に置き忘れ去られたごときペテルブルグの街角。そこで地を這うように蠢く名もなき庶民たち。ゴーゴリはその悲惨な現実を掬い上げて喜劇に仕立てました。古代ギリシアでも数多の悲喜劇が演じられましたが、悲劇の裏には宿命的に喜劇的要素があります。喜劇を描くことはすなわち、その背景にある悲劇的な世界を、凹版の版画のごとく反転させ浮かび上がらせることでもあります。そしてそれはときに、ふつうに描いた絵画よりいっそう鋭利に本質を切り出して提示してくることがあります。その業を見せたのが文豪ゴーゴリなのです。
今日まで読み継がれ、色褪せることのないロシア近代文学の数々。現代作品の下地となることも少なくありません。そのなかでも「祖」であるゴーゴリの作品は異色の光彩を放ちます。きっと、小説を書きたいあなたに創作の奥深い世界を垣間見せる、上級の手引書となってくれることでしょう。まずは『外套』、読んでみてください。ロシア文学の割には「厚さ」にたじろぐこともないごく短い作品であるばかりか、青空文庫にて、いますぐにでも読みはじめることができるのですから!
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