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街・町・村、あるいは都市とは、そこで暮らす人間にとって、いったいどのような意味をもつものなのでしょう。街がそれぞれの行政や法規によって営まれる一定エリア、暮らしに便利さや秩序をもたらす一地域区分であることは概念として理解しているにせよ、実際そこに住まう住民が、生活上のこと以外に、たとえば精神面や情緒面にどのような影響を与えるか──なんてことについては、日ごろそこまで意識することはないでしょう。あるとすれば、緑が多くて気持ちいいわァ……といった類のストレートな実感でしょうか。でも、地球上に生きる誰もがそのいずれかに属する「街」という存在。その意味や自身の精神におよぼす作用を深く考えてみることは、作家になりたい、本を書きたい者にとって、それ自体がひとつの重要なテーマとなるはずです。
たとえば東京を代表とする都市部については、「都会の色に染まる」という言葉があるように、どこか無情で空虚な、人情も連帯感も希薄な場所といったおぼろげな認識があります。心が乾いて自分を見失っていく者を描いた物語は、むかしから小説、ドラマ、唄の歌詞などあらゆる形態を通じて描かれてきましたし、これからも生まれてくることでしょう。しかし当然ながら、都市で暮らすからといって心を疲弊させていく人ばかりではありません。そうしたステレオタイプの一解釈で語るばかりでは、街のもっと別ないくつもの「顔」に目を向ける機会が失われてしまいます。
ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは、19世紀のパリに張り巡らされた回廊型アーケード「パサージュ」に尋常ならざる関心を向け、物質文明を論じて“人間の夢”について考察しました。それはベンヤミンの死後、『パサージュ論』(岩波書店/2020年)としてまとめられることになる未完の膨大なノート群に記されていました。彼は「パサージュ」に、街の未来、人間にとってのユートピアを思い描いたのです。街には確かに、人間の夢や、生活や、人生そのものを象徴し未来を考えるべき何かがきっとあるはず。その思索はまた、質の高い文学作品を書く手がかりをも与えてくれるに違いありません。
ひとりの主人公の全生涯を描いた物語は無数にあります。彼・彼女の人生の軌跡を追うなかで、生や人間存在の意味を問う深遠なテーマを描き出す作品は、ときとして時代や社会や都市の様相を浮かび上がらせ、いわゆる大河的な作品として屹立することになります。人が根を下ろすところ、生の綾を織りなす地場として、単に画としての背景「書割」以上の意味をもつことがある──それが「街」や「町」なのです。
名俳優・名監督として今日評価の高いオーソン・ウェルズが制作し、1941年に公開された『市民ケーン』もまたそんな作品です。(以下あらすじのためネタバレ含みます)一介の市民に過ぎなかった主人公、下宿屋を営む家庭に生まれたケーン。母親が宿泊費のカタに取った土地権利書によって莫大な資産を相続し、ビジネスを興して新聞王となり、さらに政界や芸能界にまで野望を広げた末に孤独な死を迎える……という彼のほぼ全人生を描いたこの物語は、英国映画協会が選ぶ「史上最高の映画ベストテン」や「アメリカ映画ベスト100」において1位にランキングされました。モデルとなった新聞王ハーストから上映を妨害された事件もまたこの映画についてまわる逸話ですが、このエピソードこそが、一大資本や権力により支配された都市の姿、資本主義の名の社会システムに牛耳られていく時代の幕開けを象徴的に物語っているようです。その意味では『市民ケーン(Citizen Kane)』のタイトルも実に暗示的。「市民ケーン」で画像検索してみてください。すると何枚目かには、新聞や雑誌の夥しい刊行物の無造作な山の上に、オーソン・ウェルズ演じるところのケーンが立つ画が出てくることでしょう。紐でくくられた新聞や雑誌がゴミのように散乱するありさまは、大量生産・大量消費に覆い尽くされていく街の風景にも重なって見えてくるのです。
もうすぐたぶん、彼はあの同じ客間に黒い服を着て、シルクハットをひざに座っていることになるだろう。ブラインドは引きおろされ、ケイト叔母は彼のそばに、泣いたり鼻をかんだりジュリアがどんなふうに死んだか彼に話しながら座っているだろう。彼は心の中で彼女を慰める言葉を探しまわり、そして役に立たないまずいやつを見つけるだけだろう。そうだ、そうだ、それはまもなく起こるだろう。
ジェイムス・ジョイスの『ダブリン市民』(『ダブリンの人びと』『ダブリナーズ』などの日本語タイトルもあり)を評するときに「麻痺」や「停滞」という言葉がしばしば用いられますが、それはいかにも正鵠を射た表現です。ジョイスの生まれたアイルランドの首都、1900年前後のダブリンを舞台に描いた15の短編からなるこの作品には、ジョイスの心象風景というのか、彼の記憶のイメージを紡ぎあげたのであろう物語が並んでいます。亡き神父の的外れな生前の姿を語る家族、息子を折檻する大酒飲みの父親、駆け落ちを諦めた若い女性、街にひっそりと存在する変質者──ダブリンという街に暮らす人々は一見善良で常識的、しかし因習や習慣や歴史や伝統のなかで麻痺しているように感じられます。この作品の描かれた背景にはイギリスの植民地支配が長くつづいていた時代がありました。『ダブリン市民』は、ダブリンという都市で生活する人々の姿を描きつつも、彼らの像、生き方、心のあり方そのものが、結果的に街をひとつの生命体のように浮かび上がらせていくことにも成功しています。その生命体とは、街に巣食い侵食する得体のしれない“何か”。ジョイス自身はその“何か”への気づきを「エピファニー」と呼びました。「エピファニー(epiphany)」とは、突如として訪れる理解、啓示。みずからが生まれた街を外側から観察するうちに、その本当の姿がにわかに露わになった──。そんなジョイスの啓示による産物がこの『ダブリン市民』なのです。
街とは、人々が生き、生活し、仕事に従事する場所。けれどそれでいて、無機質な物体でも単なる容れ物でもありません。そこに住まう人々、往来する人々が発する生命感や感情や精神、事件や管理行政の塵芥、通りすがりの異邦人が置いてゆく残滓がいつの間にか溜まって、不意に蓋が開いて別の姿を現していく。それはまるでパンドラの箱のようなもの──といったら穿ち過ぎでしょうか。
どの街にも属さないという人はいません。日ごろは、とりたてて何がどうと意識することのない街や町、日々生活を送り一日の終わりに帰っていく場所、あるいは逆に仕事で一日の大半を過ごす街を、一度別の眼で見つめてみてください。もしかすると、思ってもみなかった物語が生まれてくるかもしれません。
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