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本音と建前の狭間にキラッと光る小説テーマ

2022年11月07日 【小説を書く】

「本音と建前」が人間と社会を浮かび上がらせる

さて、かねてより小説家になりたいと夢抱いていたAさんが、書こうにもなかなか筆が進まなかったところに、ふと思いついてとんとんと滑らかに事成り、一編の小説が書き上がったとします。そして、これはなかなかいいセンいってるんじゃないか? とフルフルと武者震いが起き、その作品を友人Bくんに見せることを思い立ちました。ただ、友人は読書好きで蘊蓄も豊富だし、あまりに自信満面な態度も憚られると思い、Aさんはやや謙遜気味に感想を求めました。「どうかな? 習作レベルだし、そもそも趣味に合わないかもしれないけれど」と。一方のBくんは、正直出来がよいとは思えなかったものの、こと細かに批評するのも、いかにも嘘っぽく褒めちぎるのも躊躇われて、当たり障りなく好意的な感想を述べるに留めます。「うん、個人的にはなかなかのものだと思うよ。どうだろう? これをベースにもう一段上の作品に仕上げて、賞に応募するのは?」

──いかがでしょうこの流れ。実にありがちな風景ですが、この先にAさんに実りがあるかといえば、残念ながらそれはなさそうです。強いていえば、作品とは話が離れて、これまでどおりふたりの友人関係に支障をきたすことはとりあえずなさそう、というくらい。やはり作品に対する真剣な評価は然るべきところで然るべき形でしか得られないものです。このように、人間関係、人間社会には、果たして意味を成すのか成さぬのかわからない「本音と建前」が交差するシーンが無数に見られます。もはやどちらが本当なのか区別がつかないくらいです。

建前によって築かれた人間関係は無意味なのでしょうか? そう断ずる天才肌の論者もいることでしょう。しかしだからといって、もしあなたが作家になりたいのなら、このテーマを「考える価値ナシ」と簡単に退けるわけにはいきません。「本音と建前」はしばしば日本人的特質であるといわれますが(主にマイナス方向に)、そうとばかりいえないようです。文化人類学的に日本人論を俎上に載せるつもりはありませんが、シンプルに「本音と建前」を「真と嘘」に置き換えてみれば、そこにこそ人間世界のすべてが凝縮されているとわかります。畢竟、作家として「本音と建前」を描くことは、人間や社会を描くことでもあるのです。

「本音」が炙り出す未熟さと愚かさ

「建前」といえば、現代のそれがおよびもつかないほどエゲツなくも絢爛と濫用されたのは欧州貴族社会。17世紀フランスの劇作家モリエールは、代表作『人間ぎらい』でまさにそのありさまを痛烈に風刺しました。主人公アルセストは、心にもない美辞麗句と嘘で塗り固められた社交界に嫌気が差し、自分だけは「本音」を譲らないと決意した青年貴族。しかし彼は、不条理にも虚栄心と欺瞞の権化のような女性に恋をしているものだから、その葛藤も失望も怒りも一入です。まあまあほどほどにと忠告する友人にも耳を貸さず、本音を口にして憚らない主人公。浮気な恋人を断固として追及し、結果ますます人間ぎらいになってしまうというお話です。宮廷文化がとりわけ華やかであったこの時代、モリエールこそはいわゆる“ガチ”で上流社会の滑稽さを描いてみせたわけですが、当時の人々には作者の思いは届かず不評であったようです。けれどもう一歩この作品を深読みすれば、実のところモリエールは、貴族社会のみならず、ひたすらに本音を貫こうとする青年をも風刺したのではないでしょうか。作中には彼を好ましく思う女性も登場するのですが、彼女が惹かれたのはアルセストの正直な人柄であって、本音原理主義者のごとく硬直した彼の信条ではないのです。それに気づかぬアルセストの一本気は、ともすると人間的な未熟さを思わせます。本音を貫く生き方はときに滑稽、しかしまたときには痛快とも映るのです。

社会に体当たりする「本音」の痛快男児

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

(夏目漱石著『草枕』新潮社/1950年)

この書き出しが有名な夏目漱石の『草枕』。いわゆる漱石の「非人情=義理人情の世界から超越して、それにわずらわされないこと。また、そのさま。/出典:デジタル大辞泉(小学館) 」を求め、俗世間に背を向け隠棲の地へと向かった洋画家。この『草枕』の主人公と並べてみると興味深い人物が、同じく漱石の生み出したキャラクターのなかにひとりいます。偽善まみれの社会に背を向けた『草枕』の主人公と対比をなすかのように、むしろ敢然と盾突いた人物といえば、そう『坊っちゃん』の「おれ」をおいてはほかにいません。

おれは何事によらず長く心配しようと思っても心配が出来ない男だ。教場のしくじりが生徒にどんな影響を与えて、その影響が校長や教頭にどんな反応を呈するかまるで無頓着であった。おれは前に云う通りあまり度胸の据わった男ではないのだが、思い切りはすこぶるいい人間である。この学校がいけなければすぐどっかへ行く覚悟でいたから、狸も赤シャツも、ちっとも恐ろしくはなかった。まして教場の小僧共なんかには愛嬌もお世辞も使う気になれなかった。

(夏目漱石著『坊っちゃん』新潮社/1950年)

『坊っちゃん』についてはいまさら解説は不要と思われますが、主人公が赴任した旧制中学での騒動の顛末を描いたこの小説で、何よりも愛され支持されたのは、無鉄砲で自分を曲げない「おれ」のキャラクターでした。『坊っちゃん』は大衆小説と位置づけられていて、確かに漱石の韜晦趣味(自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと。/出典:同上 )ともいわれる『草枕』と比べるとだいぶん読みやすく、からりと明るく痛快です。しかし『草枕』の主人公が嘆息して背を向けた世間と、「坊っちゃん」がワケがわからんと立ち向かった社会は実は同じものなのです。つまり漱石は、世辞も本音のひとつも口にしない厭世の人と、まっすぐな気性の暴れん坊を通して、世の中の同じありさまを異なるタッチで遠景と近景に描いたと見ることもできるのです。

本音と建前が綾なす世界の奥の奥

「坊っちゃん」と前出モリエールの『人間ぎらい』の主人公アルセストは、世間に対し本質的には同じ信念を貫いているわけですが、一方は痛快な愛されキャラ、もう一方はともすると煙たがられる空気読めないキャラと人が受け取る印象は正反対です。世間を渡っていくなかでは、本当は「建前」だって必要なわけで、それを全否定する不器用さは双方に共通しており、要するに「おれ」とアルセストのふたりは紙一重。それなのにこの大きな差はどうしたことでしょう? なんせモリエールは、『人間ぎらい』で高貴な宮廷人や知識人でも平民でも等しく楽しめる作品を目指したはずなのに、思いのほか平民ウケしなかったことから、これを機に作風を転換することになったそう。これは推測の域を出ませんが、作者のそれぞれの出自にも関係しているのかもしれません。モリエールは富裕な商家の長男として生まれ、家はのちに王室御用達の室内装飾業者となりますが、その道を捨てて劇団を結成します。漱石も名主の家に生まれはしますが五男の末子で、その後は実家の落魄とともに浮沈する幼年期青年期を送ったのち、教師や講師を務めたり朝日新聞社で勤め人として人生のひとときを過ごしたりします。どちらもインテリですが、モリエールはそれ以上に、当人は捨てたつもりでも「ハイソサエティ」の芳しい匂いがついてまわります。そんなところが、当時の平民の鼻についたのかもしれません。

そしてもうひとつ大きなポイントが、『坊っちゃん』がいうなれば“ヒーロー小説”の構造をもっていることです。実際『坊っちゃん』の主人公像が後世にもたらした影響は大きく、のちの小説や漫画の、破天荒やら豪放磊落やら天衣無縫やらと形容されるヒーロー像の本質には「坊っちゃん」のソウルが注入されているといっても過言ではないでしょう。本音全開のヒーローには微妙な陰翳も心理描写もいりません。ですが、そんなヒーローが活躍する一見単純に痛快無比な『坊っちゃん』に、さらりと複雑怪奇な背景、深淵を覗かせているところが、我らが漱石の漱石たる所以ではないでしょうか。

「本音と建前」を字義どおりに処世術とだけ捉えているあいだは、書き手としてはまだまだだということなのでしょう。本音と建前を使い分け駆使する狭間には“何か”があります。それはごく小さな環境にも大きな社会にも根を張る、人間の本質にかかわるもの。日常の暮らしのなかでほんの一瞬だけキラッと光る“何か”を、その時代時代の切り口で一閃、スライスして誰もにわかりやすく標本として見せることができたとき、漱石先生もびっくりのあなただけの小説が誕生するのかもしれません。

※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。

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