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視る・聴く・触れる・味わう・嗅ぐ──これらはいわずと知れた人間や動物の5つの感覚機能です。生きる上で大きな役割を果たすこの五感、無論いずれも大事ですが、もしひとつを選んで手放さなければならないとしたら? それは、反論の向きもあろうかと思いますが、筆者の私見ながら「嗅覚」に1票を投じたいと考えます。なぜってまず、悪臭は敬遠したくなるではないですか。世の中はいい匂いもあれば、筆舌に尽くし難い臭気も多々あります。だから、臭いものには蓋を──などと唱える前に、自分の嗅覚を閉ざしてしまえば、それはそれで楽だろうという持論です。それに、食事の際に芳しい匂いが嗅ぎとれないとしても、舌が機能している限り、食の悦びは相応に担保されているとみなせます。美しい花は香りがせずとも視覚に美しいし、檜風呂に浸かれば香りがせずとも肌に気もちがいい。森に立ち込めるフィトンチッドにしても、魅力的な人物が放つフェロモンにしても、匂いのようでいてそれほどシンプルではありません。森を飛び交う鳥のさえずりや、好意を寄せる異性の囁きがあれば、こと足りるようにも思われます。というように嗅覚は、他の感覚の補佐的役割を担うことも多いように思われるのです。いわば、五感の末席に控える伏兵のごとき感覚といえましょうか。
と、いささか嗅覚軽視的な発言を呈してみましたが、文章を書く、創作するという段では、おいそれと侮れない、いえ侮ってはならないのが嗅覚でもあります。嗅覚なしでも他の感覚によって対象を確かめることはできるかもしれません。けれど見方を変えれば、匂いとは、他の四感の発動を促し熱烈な欲望を呼び起こすものでもあるのです。得もいわれぬ美味しそうな匂いが散歩中に漂ってきたらどうでしょう。盛大に食欲がそそられるはず。パン屋、コーヒーショップ、ステーキハウス……、それらの軒が視野に入る前から、私たちは胃の腑は嗅覚により刺激されはじめます。春には花の香に立ち止まることもあるでしょう。馥郁たる芳香を漂わすバラ園があれば、開花の時期は家路さえ少し変えたりすることだってあるはずです。フェロモンとは無関係といわれますが、控えめなフレグランスを残す方とすれ違えば、ああいい匂いだな……だけではない秘めやかな関心が呼び起こされるはず。こうなるともう「匂い」は伏兵どころではありません。影のフィクサーとぐらい呼んでもいいくらいです。すなわち、あなたが小説やエッセイに表現することができたなら、おおいに読者の読書欲をも刺激する──それが「匂い」なのです。
“歴史上の”というほどむかしの話ではありません。1985年にドイツで出版されるや300週以上に亘って『シュピーゲル(発行部数がヨーロッパで最も多いニュース週刊誌)』のベストセラーリストに座し、50以上の言語に翻訳され、世界中で2000万部以上もの売り上げを記録した小説があります。ドイツの作家パトリック・ジュースキントの、その名も『香水』と題された一作です。全編「匂い」に満ちあふれたこの小説、「ある人殺しの物語」と副題が添えられているとおり、匂いに刺激され殺人の欲望に駆り立てられる男の物語なのですが、安直に匂いフェチのサイコものと思ったら大間違い。とんでもない怪小説なのです。「稀代の“匂いの魔術師”をめぐる大奇譚」──書籍紹介文にこう書かれていますが、世にふたつとない奇譚も奇譚、まさしく大奇譚なのであります。
町はどこも、現代の私たちにはおよそ想像もつかないほどの悪臭にみちていた。通りはゴミだらけ、中庭には小便の臭いがした。階段部屋は木が腐りかけ、鼠の糞がうずたかくつもっていた。(中略)室内便器から鼻を刺す甘ずっぱい臭いが立ちのぼっていた。暖炉は硫黄の臭いがした。皮なめし場から強烈な灰汁の臭いが漂ってきた。屠場一帯には血の臭いがたちこめていた。人々は汗と不潔な衣服に包まれ、口をあけると口臭がにおい立ち、ゲップとともに玉ねぎの臭いがこみあげてきた。
人間の鼻を曲げんとするばかりに匂いの魔集団が跋扈していた時代、その「町」とは18世紀のフランス・パリのこと。不快な匂いに満ちたなかでもとびきり強烈な悪臭漂う町の一角に、主人公ジャン=バティスト・グルヌイユは生まれます。生後間もなく(いわくつきで)母を失い孤児院で育ったグルヌイユは、やがて人並はずれた、いや人間離れした嗅覚を現しはじめ、周囲の人々にいよいよ気味悪がられるようになります。
調合といおう。あるかなしかの弱々しいものなのに、毅然としていて保ちがいい。薄地の美しい絹のような──だが、あきらかに絹とはちがう。むしろ甘いミルク、ビスケットを溶かしたミルク。つまりはありえない二つのものが合わさったものか。ミルクと絹、この二つ! まったく不可解な匂いである。
(同上)
そして、孤児院を出たのち、グルヌイユは匂いに取り憑かれ、いや匂いの大魔王と化したかのごとく、極上の妙なる香りを求めて各地を転々としながら、香水調合師の技を磨き、殺人を犯していくのです。
驚くべき芳香だった。バルディーニの目から発作的に涙があふれ出た。試してみるまでもない。テーブルの上の調合壜の前に立ち、深い息をした。すばらしい香水だ。これに較べたら《アモールとプシケ》とは何ものか。壮大な交響曲に対して、誰かが下手なヴァイオリンをひっかいたと言いたいほどの違い。いや、それ以上の違い。
(同上)
連続殺人の末に逮捕され法廷に立ったグルヌイユは、匂いの魔力で死刑判決を覆させてしまうのですから驚きです。しかし、匂いに狂乱し我を忘れる人間たちにほとほと嫌気が差したグルヌイユは、香水の街グラースをあとにします。そうして辿り着いた先は悪臭漂う故郷のパリ。そしてこのパリで、“匂いの魔術師”グルヌイユの波乱に満ちた旅は終わりを迎えるのですが、その奇跡と恐怖の結末はここでは明かさないことにいたしましょう……。
人を陶然と酔わせる天上の香り、吐き気を催させるばかりの悪臭。全編これ「匂い」に満ち満ちたパトリック・ジュースキントの『香水』は、五感の伏兵、あるいは影のフィクサーたる「匂い」の表現に触れるのに格好の一冊。作家になりたいあなたがこれから書く小説がもし「匂い」を立ち昇らせたなら、きっと読者を忘れ得ぬ読書体験へといざなうことでしょう。少なくともそれにトライすることが、あなたを次のステージに引き上げてくれることは間違いありません。
ちなみに「匂い」から離れた余談になりますが、小説『香水』の主人公ジャン=バティスト・グルヌイユの誕生は1738年、そして死は1767年となっています。それは、フランス革命期において恐怖政治を主導したロベスピエールの片腕、ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストの生まれた年でもあります。つまりグルヌイユは、王朝の絶頂期を築いた太陽王ルイ亡きあと、王政が揺らぎ、いまや革命の足音が聞こえんとする時代を生きたことになります。そこに作者ジュースキントは何らかの意図をもたせたものか──そのような観点で物語を読み解き味わうのも一興であり、また作家修行のエクササイズにもなろうかと思います。
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