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「恐怖」それは世にも強力な情動

2025年02月19日 【小説を書く】

「恐怖」、それは底知れないもの

人間がもつ“人間らしさ”のひとつに、「感情」が挙げられます。動物にだって感情はあるワイ! というご意見はもっともですし、人間だけは──と限定しているわけではありません。ただ、脳内に渦巻く「感情」というものの多様性や複雑性という点にまで目を向ければ、人間は感情の生き物という言にも異論はあまり出ないのではないでしょうか。生後間もないころ、興奮や快・不快程度だった私たちの感情は、やがて喜びや驚き、嫌悪や恐怖といったふうに細分化され、成長とともにより曖昧で複雑になるそうです。たとえば、幼児の「人見知り」は、芽生えはじめた恐怖心が発端だともいわれています。発達するにつれ、感情も想像力もより豊かになっていった結果、目に見えない敵と戦う遊びをはじめたり、夜の物陰に得体の知れない恐怖を覚えたり、寝床の壁紙の模様が魔女の顔に見えたりして、夜ごと布団をかぶっては「怖いよう……」と震えるようになるわけです。本能的でごくシンプル、しかしある種の知性に基づいているフシのある「恐怖」。さて、今回はそんな「恐怖」というモチーフをどのように創作物に表すのか、ちょっと考えてみましょう。

ご存じのとおり、世の創作物には「ホラー」と呼ばれるジャンルがあります。が、わかりやすいようでいて、厳密な定義づけは難しいものです。死と背中合わせの怖さもあれば、スプラッター描写やグロテスクな怖さ、いわゆるサイコホラー、何かが出るかもしれない不安がもたらす“正体不明”への恐怖もあります。漠然とした死への恐怖、天災の怖さ、特定の人間や動物、人間関係や興奮状態・緊張状態のなかに生じる恐怖……。そう、私たち人間の恐怖の対象は、星の数ほど数限りなくあるのです。そして多くは、さまざまな“恐怖要素”が密接に関わり合っていることがほとんどです。加えて興味深いのが、私たちが覚える摩訶不思議な情動──怖いもの見たさ。自分がリアルに襲われることだけは避けたいけれども、どうにもこうにも気になる……といった人間特有の不条理な心理が、恐怖の感情の一枚外側には多かれ少なかれ誰にでも存在しているのです。このように「恐怖」とは、小説を書きたい、作家を目指すという者であれば、一度、深く探ってみる価値のあるお題なわけです。

制御不能な邪悪性がもたらす「恐怖」

彼はハイドを、生命力は強いにしても、どこか地獄の鬼のようなところばかりではなく、何となく無機物らしいところのあるものと、考えた。その地獄の粘土が叫んだり声を立てたりするように思われること、その定まった形のない土塊(つちくれ)が身振りをしたり罪を犯したりすること、死んだ無形のものが生命の働きをうばうということ、これはいかにも恐ろしいことであった。また、その反逆的な恐ろしいものが妻よりも身近に、眼よりもぴったりと彼に結びつけられて、彼の肉体のなかに閉じこめられ、そのなかでそれが呟くのが聞こえ、生まれ出ようともがいているのが感じられ、いつでも弱っている時や、安心して眠っている時には、彼にうち勝って、彼の生命を奪ってしまうということも、恐ろしいことであった。

スティーヴンソン著・佐々木直次郎訳『ジーキル博士とハイド氏の怪事件』/新潮社/1950年 ルビは青空文庫に従う)

ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『ジーキル博士とハイド氏』は、人間の二面性がもたらす「恐怖」を描いた小説です。主人公は医師であり科学者であるジーキル博士。社交的で人当たりのよい彼には裏の顔がありました。人には言えない趣味に耽り道徳からの解放感を味わっていたのです。若い頃から自身の二面性を自覚し、どうにかこれらを分離できないかと研究を重ね続け、ついに薬を完成させます。実験は成功し、薬で変身できることを知ったジーキルは、思うままハイドに変身して悪事に身を任せます。やがてハイドの邪悪性に支配されはじめ元の自分に戻れなくなったことを知ったジーキルは、ハイドの姿のまま命を絶ちます。

聖人ならばいざ知らず、人間の心は常に善なるもので満ちあふれているわけではありません。悪意とまでいかなくとも、ごく些細な悪感情くらいはふと湧いてくるものです。理性と善の本性によって抑えられはしても、悪の解放への憧れはどこかにもっているのが“ふつう”でしょう。アンチヒーローに惹かれる気もちはつまるところ、悪への少しの共感から来ているともいえるのです。では、咎められることなく悪行が働けるとしたらどうか。さらには悪をコントロールできず悪に支配されたらどうか──性善説を信じる人にとっては、恐怖をも超え、絶望するようなお話です。

闇の「恐怖」、闇のなかの「恐怖」

これはジョゼフ・コンラッドが1899年に発表した『Heart of Darkness』の邦訳版、『闇の奥(中野好夫訳/岩波書店/1958年)』に登場する有名な台詞です。「地獄だ! 地獄だ!(引用ママ)」と、我を失って恐怖を叫んでいます。誰が叫んでいるのか? 作中に登場する、コンゴ自由国(ベルギー国王の「私有地」)で象牙交易で成果を上げたとある人物です。とはいえ交易とは名ばかりの、すさまじい支配と搾取で辣腕を振るい、闇のような力をもち帝王のごとく崇められているといういわくつき。現代の価値観に照らせば、西洋の植民地主義の悪性を象徴するような人物であるわけです。では、その闇の帝王のごとき男がなぜ、己が支配するアフリカの地で「地獄だ! 地獄だ!」と叫んだのか? 実は、これこそが本作最大の謎であり、多くの論と解釈かまびすしいところなのです。欲望や理性、あらゆる人間性を呑み込むジャングルの奥、その闇の中心にはいったい何があったのか。ぜひご自身の目で読んで、確かめていただきたいものです。

T・S・エリオットの、フィッツジェラルドの、スタンリー・キューブリックの、そして村上春樹の心を惹きつけてやまなかった『闇の奥』。かの夏目漱石も『コンラッドの描きたる自然について』という一文で、「自然と人間を対等に取扱う境を通り越して、自然を主、人間を客と見た面白味をさえ解している」と、この作品へのひとかたならぬ関心を示しています。原題の『Heart of Darkness』を直訳すれば「闇の心」。かつての欧州で「暗黒大陸」と呼ばれたアフリカの奥地、“未開の自然”には、人を寄せつけない、未知の恐怖をもたらすとてつもない「何か」が存在する──そしてその「何か」の存在が、そこはかとない深い恐怖を感じさせる小説です。

「恐怖」へのアプローチ、それもまた未知なるもの

臨床心理学者の河合隼雄は、「人間っていうものは、自分の人生観とか世界観とかシステムを持ちながら生きているわけですが、それをどこかで揺り動かすものが恐怖であるわけですよ」(『対話する生と死』 大和書房/2006年)と「恐怖」の本質を定義しています。こうした視点から「恐怖」を探ってみるのも一手ですし、コンラッドのように人知の及ばぬ世界の恐怖に臨むのもよし、底知れぬ人の心の闇に目を向けるのも一興でしょう。さらに、いまだかつて誰も試したことのない恐怖へのアプローチだってないとは限らないのです。何たって、人の心は限りがなく、当人さえ与り知らぬ部分が存在するのですから……。

さて、あなたなら、どんな「恐怖」を描きますか?

※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。

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