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人間とはなんと複雑で面倒くさい生き物であるのか──。こうした問い、というよりはむしろ慨嘆にも似た思いを自分自身に覚え、深い溜め息を吐いたことのある人は少なくないのではないかと思います。自分を少し俯瞰視して、おまえは一体何を考えているのか! どういうつもりでそんなことを! ちくしょう! おまえはいつもそうだ……などと、我と我が胸を拳で打ち、自分自身の言動に呆れ果てたりオロオロと狼狽したり、それに類した経験は大小あれおそらく誰もがもつものです。
しかしこうしたロボットでは絶対にあり得ない自己矛盾、つまりダメとわかっていても自分をすら呆れさせる言動を我々人間がしてしまうのは、もしかすると胸中に湧き出でる感情が元凶かもしれません。望む望まないにかかわらず、忍び寄るようにして近づき、突如姿を現す感情というヤツはまるで悪魔のよう。そのうえ一時的に昂った感情が、「もうこれしかない」「途方もない名案だ」と信じ込ませてくれるものだから厄介なことこの上ないのです。その言動によって、人生を台なしにしたり、後世、人に思い出されるたびにそのエピソードを添えられる著名人は枚挙に暇がありません。
一過性の衝動、感情のヒートアップを意識的に抑えられれば、そんな痛い失敗は避けられるんじゃないかって? まあ、それはそうです。そうした対策により、確かに事なきを得られもするでしょう。しかし、感情が容易にコントロールできないのもまた明白な事実。さらに問題なのは、感情それ自体が独立した自律器官かのように、抗いようのない根深い動きを見せることがある点です。脳の司令によりぐっと理性で抑えようとするも間に合わず、気づいたときには、眼の前に立っていたはずの相手が地面に伸びているなんていう、手遅れの状況を招くことだってあるわけです。「またやってしまった……」と幾許かの反省を挟む間すらなく、修復しがたい事態や、下手をすると破滅的状況の前に、ただ呆然と我を失うのみ──ああ、想像するだに恐ろしや恐ろしや……。けれども、作家を志すものならば、この根深く重大、複雑にして不可思議な人間の感情と、それがもたらすものについて、まっすぐに見つめることが肝要なのです。
すると、怒りが込み上げてきた。それは、気の弱い、臆病な人間にありがちな激しい怒りだった。(略)それなら、咳をしてやろう。(略)夫にそういう思いをさせてやるんだ。そういういやな思いをさせてやる!
19世紀フランスの文豪ギ・ド・モーパッサンといえば、長編小説『女の一生』が代表作として有名ですが、実はデビューから42歳で死去するまでのわずか十数年の文筆生活で、300編あまりもの中・短編小説を遺しており、その筆の鋭さはむしろ短編においてこそ際立つものがあります。上に引いた『初雪』は、ノルマンディーの田舎貴族に嫁いだ女の物語。財産目当ての両親の目論見による結婚でしたが、次第に女は素朴で陽気な夫に愛情を感じるようになります。しかし平穏な幸福は、北部ノルマンディーへの厳しい寒さの訪れとともに脅かされていきます。厳しい気候に慣れない妻は寒風に震え、暖炉はあっても湿気の籠る古い屋敷の冷気は耐えがたいほどです。たまりかねて夫に暖房機の設置を乞うと、土地と屋敷に愛着し寒さなどものともしない夫は陽気に笑って退けます。ようやく暖かな季節が巡ってくると妻は生き返った心地を味わいますが、再び冬の気配を感じると暗く沈む気持ちをどうにもできません。ある日、身も世もなく泣き崩れる妻に夫は驚きますが、その理由が暖房機のない辛さであると知るや、そういうおまえは一度も風邪をひいたことがないではないかと諭します。その刹那、彼女のなかに復讐の火が灯るのでした。
『初雪』は、単に育った環境の異なる夫婦の破局を描いているわけではありません。相容れない感情がもたらす些細なようでいて埋めがたい溝──結婚生活を破綻させた経験がある方なら大きく頷くのではないでしょうか──それがいつしか暗い暗い深淵となってふたりのあいだに横たわるのです。そしてその淵からは、己の犠牲すら厭わない静かでいて凄まじい復讐心が生まれます。風邪をひいたことがないと願いを一蹴された妻は、病気になろうと寒気に身を晒し、ついに願い叶って重い肺炎を発症します。病状は一向に回復せず、その重篤さに医師に暖房機の必要を指摘される夫。形ばかりの同意はするも、苦々しさだけは隠せません。いっぽう妻は、療養転地した南の土地で受け取った手紙によって、朽ちかけた屋敷にとうとう暖房機が完備されたことを知るのでした。
元気で過ごしていることと思う。さぞかし、ぼくらの美しい土地に早く帰りたいと、思っていることだろうね。数日前から霜がおりだした。(略)ぼくはこの季節が大好きだ。だから、きみのあのいまいましい暖房装置は作動させないでいる……
(同上)
現代においてこれを読むとつい吹き出したくもなりますが、時代も時代。そして何よりふたりは本気なのです。咳に苦しめられ、真に命の終わりを予感しながら、しみじみとした悦びに満たされる妻。その暖房機を自分が使うことはないとおそらく妻は知っていたでしょう。ひょっとすると彼女は、うっすらとした笑みをこぼし想像さえしたかもしれません。自分が世を去ったあと、陰気な屋敷で埃を積もらせていくだけの暖房機を──。
物語はここで幕を閉じますが、その先を想像するならば、きっと、残された夫は妻の死を嘆いたことでしょう。だって、愛しているがゆえに、あれほど嫌がっていた暖房機を設置したのですから。けれど、この単純素朴な夫が妻の復讐心にゆめゆめ気づくことはなく、妻にもそのことはわかっていたように思います。それでも妻は、己を苛んだ寒さがもたらした死によって復讐を遂げなければならなかった──まさに、壮絶な復讐の一念です。物語においては、夫の単純さにも妻の憎しみにも関わりなく、季節は巡りきてそれぞれの土地に風趣の装いを凝らします。ノルマンディーの雪景色、オレンジの花咲くカンヌ、そして、初雪の舞う巴里。人間の感情などに左右されることのない自然の美の姿──モーパッサンは、かくも美しく儚い復讐劇を描いたのです。
誰もが自分の裡(うち)にもち、絶えず忙しなく移り変わり、その複雑怪奇な蠢きで宿主の理性すら翻弄し、ときに生と死にさえ影響をおよぼす、形なく重大なもの──人間の感情はこのように名状しがたく、だからこそ小説を書くにあたって常に意識すべき根本テーマなのです。感情はまるで原生生物さながらに、予測できない動きをもって、ひとつとして同じものではない形態を現します。喜び、悲しみ、怒りといったごく大まかな区分のなかでも、それぞれが異なる形と質をもつのです。もとより、それぞれに異なる感情動態を示す人間同士が互いを完全に理解し合うなどどだい無理なこと。それは当たり前のようでいて、多くの誤解も生んでいるのではないでしょうか。モーパッサンの『初雪』は、そのことも暗示しているような気がします。
このように、人間の感情の探究とは、作家になりたいあなたを、あなただけが書ける創作へと導いてくれる有用な方策のひとつです。まこと奥深く歯ごたえのある難題ではありますが、複雑にして不可思議な人間の感情を探り、思考して、見えてくる世界が、あなた自身の無二の一作として実を結ぶ──そう信じています。
※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。
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