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現代社会という道具立てから、あなたは離れられるか

2024年07月29日 【小説を書く】

可能性に満ちた現代、それは豊かであると同時に……

否応もなく、ポッと生れ出づれば、そこは豊かさと比較対象が氾濫する現代だった──。考えてみれば、赤ちゃんは、偶然地球に落ちてきてしまった宇宙人のように、あるいは遠い過去から時空をくぐり抜けてきたタイムトラベラーのように、それまで目にしたこともない新しい環境・文明の中に突然その身を置いた、正真正銘の異邦人です。見るものすべてが新しく、キョロキョロと辺りを見回すばかり。純粋な瞳をいっぱいに見開いて……。しかし、彼らはみるみるうちに環境に順応していきます。しかも順応するばかりではなく、その時代、その環境に適した身の処し方を学んでいくのです。といって、“身の処し方”に常に数学でいうところの「唯一解」があるわけではありません。現代社会におけるそれは多岐に亘り、自由で、また選択次第では、あらゆる可能性が開かれていくでしょう。よくも悪くも、やったもん勝ちの世相となった現代ではなおさらに──。

一方で、高度な文明社会では、選択肢がさまざまあるという気軽な自由さがかえって仇になり、さまざまな罠を引き寄せもします。素朴な生活であれば、人間の欲求は単純かつ基本的な次元に留まっているのに、物質的に豊かな環境にあっては、人はごく当たり前に、「もっともっと」と欲望を募らせていくものです。その結果、あの人は持っているのに自分は持っていない、と己の幸福や充実を測るのに“他人との比較”という物差しを使うようになります。自分というただ一人の人間を測る自分だけの物差しを、人は淡い青春の日々を忘れるがごとく失くしてしまうものなのでしょうか? いえそもそも、モノに溢れ、日進月歩の勢いで科学が進歩し、日常生活の隅々にまで侵食してくる現代社会で、はたして、自分だけの物差しを持つことなど可能なのでしょうか?

小説を書こうとするとき、そこにも罠がある

たとえば、小説家を志す者が「人生」を題材にした一作を描いたとします。その中には当然のように、他者との関係と、それによって傷ついたり満たされたりする人物が登場することでしょう。その人物は、何かを求めて得られないから傷つき、自分ではない他の何かから受け取るものによって幸福を感じもします。社会とは、人と人がつながって作られているものだから、それはなんら不思議なことではない、とはいえます。けれど、ここでちょっと考えてみてください。では、“個人”はどこへ行ってしまったのでしょう? 他者との関係性や外的な出来事を反映し、ようやく月のように輝くのが人生の意義であり喜びであるとするなら、個人としての実存、精神はいったいどうなってしまうのでしょう?

ひょっとすると、私たちは、自分をまずもって大事にして選択し行動しているつもりでも、実のところ他との関係を指針としたものであって、他者を立ち入らせない純粋な個人の意思、精神をなおざりにしているのかもしれません。だとすれば、そこには重大な問題が生じ得ます。小説の風景に重ねて考えてみましょう。描かれるのは、人間関係や社会の中で喜びを得たり傷ついたりする構図に、個人としてのすべてが説明され集約されているような物語──になりませんか? こうした考え方やテーマ性が間違っているというわけではありません。そこにも確かに、描くべきものは数多くあるでしょう。ただそれらが、「人生」のあり方を考える、そのすべてに通じるパターンや公式のようにインプットされているとなると、作家になりたい人間としては、要注意です。下手をすれば、作家としての成長を阻む要因にもなりかねない、となったら、さあ大変。

人生における孤独の意味を体現する、ある主人公

「孤高」と呼ばれるような人物を主人公に擁する小説がありますね。何事にも何者にも左右されずに、個としての存在、精神を貫く人物。それがエンタメ小説であっても、そうした主人公に何かを教えられるということはあるはず、ひたすら孤独であり続けるヒーローに胸を打たれることはあるはずです。エンタメばかりではありません。一見平凡な、傍目には悲惨な人生を送っている主人公が、寡黙な中から語りかけてくる小説もあります。

エッガーは逞しかった。だが緩慢だった。ゆっくり考え、ゆっくり話し、ゆっくり歩いた。けれど、どの考えも、どの言葉も、どの一歩も、その跡をしっかりと残した。それも、その種の跡が残るべきだとエッガー自身が考える場所に。

ローベルト・ゼーターラー著・浅井晶子訳『ある一生』/新潮社/2019年

オーストリアの作家ローベルト・ゼーターラーのブッカー賞受賞作『ある一生』(原題:Ein ganzes Leben)。主人公アンドレアス・エッガーは、父は顔も知らず、幼くして母を亡くし、オーストリア・アルプスのある村の農家に引き取られて少年時代を送ります。養親は冷酷で、エッガーは日々厳しい労働を課せられ、体罰によって片足に障害を負いながら、逞しい青年に成長します。彼は広い意味で特別なことは何も成し遂げません。その生涯は、貧しさ、戦争、俘虜生活、たった一人巡り合った伴侶との死別……と、時代と人生の荒波に翻弄される孤独な日々ばかりでした。傍から見れば苛酷であり、同時代にあっては平凡とすらいえるかもしれない人生。収容所から解放後、郷里に帰り、山岳ガイドとなって山小屋で一人暮らしたエッガーは、晩年、雪解けの陽光を浴びながらこう感じます──自分の人生はそう悪くはなかった、と。

エッガーは、信条や哲学をもって、“理想的な人生”を生きようとしたわけではなかったでしょう。けれど彼には、生涯忘れずにいた言葉がありました。それは、ロープウェイ建設の作業員として働いた会社の部長の言葉でした。

人の時間は買える。人の日々を盗むこともできるし、一生を奪うことだってできる。でもな、それぞれの瞬間だけは、ひとつたりと奪うことはできない。そういうことだ。

(同上)

苦難も喜びも悲しみも、「それぞれの瞬間」を魂に刻み続けた──それはそのまま、エッガーという一人の無名の男の一生であったのかもしれません。

孤独、貧富、弱さ…etc.──そこに独立した意思を介在させよ

意志もまた、一つの孤独である。

この言葉を遺したのは、アルベール・カミュ。

ヘンリー・デイヴィッド・ソローのこんな言葉もあります。

あなたの人生をシンプルにすると、宇宙の法則がよりシンプルになります。
孤独は孤独ではなくなり、貧乏は貧乏ではなくなります。
そして弱さが弱さではなくなるのです。

「孤独」も、「貧乏」も、「弱さ」も、他との比較によって言い表される言葉。現代社会という道具立ての中に暮らす人々が感じ、用いる言葉、ではないでしょうか。それならば、一度エイッとそこから離れてみてください。そんなふうにして、独立した意思によって、「人生」や「人間」を考える小説を書いてみるのも、エッガー流にいうなら「悪くない」──そう思いませんか?

なお、『ある一生』はオーストリア・ドイツ合作により映画化、日本でも2024年7月12日から全国で順次公開されています。

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