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種々の欲望に振りまわされ、煩悩に心を挫く人間。その愚かさや不完全さは、多少の差こそあれすべての人間がもちあわせているもので、それはもう、人間としてもって生まれた“さだめ”としかいいようはありません。ああ、自分とはなんと愚かな……と身のほどを知ったり自分の真の姿に目を啓くことは、つらくとも、人間として成長する起点でもあります。しかし、このへんがまた人間の“さが”なのでしょうか。悟りを得て謙虚になるのかと思いきや、まるで謙虚さにあぐらをかくような厚顔無恥ぶりを発揮しはじめ、挙句、過ちを繰り返してしまうというのも、まま、否、往々にしてあることです。ああ、哀れなり、人間よ……。
人間の哀れさを折り目正しく自覚したとしても、所詮人間てそんなもの──と開き直ったり、「またやっちゃった、テヘ」と自分に甘々な対応をいい大人になってもつづけているようでは厳重なる注意が必要です。人間の“さが”だからと、意志の発動をハナから捨ててなるがままに生きるばかりでは、進歩どころか後退するばかり。己を高めようと健気に努力する姿勢こそが人間を人間足らしめる本質であり、自身の愚かさや不完全さを省みて思索に沈み込むことは、行きすぎない限りは基本的にはネガティブに捉える必要はないのです。思索したはいいけれど答えが出ずに煩悶、その末にただ投げやりになるばかりでは本末転倒ですが、人間とは? とその本質を考え抜き、その思索の成果なり経験なりを世のため人のために役立てられるのであれば、それはすばらしいことですし、何より心健やかに生きる拠り所を自己の内部に見出す瞬間は、何ものにも代えがたい肯定感をもたらしてくれます。やはり人間とは「考える葦」なのです。
では、そんな愚かしくも健気な人間の対極にあるものは何か──? いろいろな見方考え方があるにせよ、ひとつ絶対的に挙げられるのは「自然」でしょう。ところが、実はここには重大なパラドクスがあります。それは何かといえば、本来、人間も自然の一部であるということ。自然の一部として自然のサイクルのなかで命を授かった人間が、自然の対極的存在になるとは、これはいったいいかなる神のいたずらなのでしょう。自然の一部として生を享けながらも、先住民族などを除いては自然のなかで自然の倣いのまま生きることなど到底できなくなってしまった現代人。いまや手の届かない自然を、敬い、尊び、その懐に謙虚に抱かれなければいけないという叫びが声高に訴えられる一方で、文明の向かう方向はさらに離叛するようなことばかり。自然の摂理に従って誕生したはずの人間が、その母なる自然から蹴り飛ばされるようなありさまとなる理由とは何か? アダムとイヴのリンゴでしょうか? この問いかけへの回答は、そのまま人間の本質を読み解く手がかりとなりそうです。
人間の本質を暗示するかのようなこの重大なパラドクスを深く考察し、答えを差し出すかのように人間と自然を対比的に捉える著述・創作はあらゆる分野におよびます。文芸作品でいえば、わけても「詩」は直感的にその“解”を模索する営みそのものといえるでしょう。自然を詠う詩は、無論、さまざまな詩意と詩景を浮かび上がらせます。ただ、ひとつ共通して感じられる部分があるとすれば、自然と人間を合一させて考えるような主題性はあまりない、ということ。むしろ強調されるのは両者の異質性。しかも人間の異質性が、人間の姿を“直截的には捉えない詩”から強く感じられることがあります。
森の大きな樹の後ろには、
過ぎた年月が隠れている。
日の光と雨の滴でできた
一日が永遠のように隠れている。
森を抜けてきた風が、
大きな樹の老いた幹のまわりを
一廻りして、また駆けだしていった。
どんな惨劇だろうと、
森のなかでは、すべては
さりげない出来事なのだ。
森の大きな樹の後ろには、
すごくきれいな沈黙がかくれている。
みどりいろの微笑が隠れている。
音のない音楽が隠れている。
ことばのない物語が隠れている。
きみはもう子どもではない。
しかし、大きな樹の後ろには、
いまでも子どものきみが隠れている。
ノスリが一羽、音もなく舞い降りてくる。
大きな樹の枝の先にとまって、
ずっと、じっと、遠くの一点を見つめている。
森の大きな樹の後ろには、
影を深くする忘却が隠れている。
自然とはどのようなものか、森のなかではどのように“時”が過ぎていくのか、長田弘の『森のなかの出来事』は古い一本の大きな樹の佇まいを通して語りかけてきます。誕生して間もない子どもは自然の営みの気配─“時”とともに忘却の向こうへと去っていくもの─をまだ体のなかに残している。それはしかし、人の記憶と魂のどこかにそっと息を潜めているもの。森のなかのできごとと、大人になった人間とは、なんと違うものだろうか。けれど、喪失の哀しみは優しいなぐさめをも与えてくれる──そんな詩意が読み取れる一作です。
ヒトの体とウイルスは自然同士?
月や星も生きてないけど自然同士
庭のアジサイが朝日を浴びて咲き誇り
ココロはアタマより先に目覚めて
言葉なく自然のスゴさに呆れている
ココロは意味がなくても死にはしない
でもアタマは意味がないと生きていけない
この世は意味と無意味のせめぎ合い!
谷川俊太郎の『自然同士?』はコロナ禍の2020年に書かれました。争いごとに躍起にもなれば、ウイルスに翻弄されもする人間。一方のウイルスは、生存を賭けて闇雲に暴れる厄介者。どちらも自然から生まれたのに、自然の営みとはすっかり異質のもののように見えるヒトとウイルス。谷川俊太郎の詩としては珍しく、アイロニーと警句の匂いを感じさせる一篇は、「意味と無意味」がせめぎ合う世に問いを発します。
谷川俊太郎はある雑誌の対談で、「自然には意味がないからいい」と語っていました。また、自分は「言葉を信用していない」、「音楽は意味がなくても人を感動させるから憧れてきた」とも。詩人として三四半世紀近くもの歳月「言葉」を操ってきた谷川が、その仕事の一部において、「響き」に焦点を当てた言葉遊びをときに試みるのは、こんな憧れも理由としてあるのかもしれません。言語的な意味をもたない音楽のような言葉を「詩」として紡ぐことで、同じく意味をもたない自然により近づこうとする谷川の詩作アプローチの一端を開陳するようなこれらの言葉。ただの音としては内実的な意味をもたない、まるで自然の一現象のような言葉──そこに命を吹き込み意を輝かせるのが、まさしく詩人の仕事であると谷川は説いているようです。あなたがもし詩人になりたいと思って本稿を読んでいるのだとすれば、谷川が言うところの「信用の置けない言葉」を紡いできょうもあしたも詩を書くのでしょう。そのときにふと思い出してみてください。人の世とは別世界にある「自然」に鼓動を合わせ、深く静かにそれを見つめて作品を描いてみることを。そうした試みがあなたの詩作の世界の奥行きを広げ、彩りを豊かにしてくれるのはおそらく間違いありません。
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