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子どもの「個性」を啓く本を書こう

2022年12月27日 【絵本・童話を書く】

「個性の尊重」を語る上でのもう一歩

「SDGs」「多様性」「ダイバーシティ」「ジェンダーフリー」といった言葉が広く一般に知られるようになるよりずっと前から、私たちの心には「個」というものを尊重する、尊重していきたいという意識が(命名こそされていませんでしたが)息づいていたはずです。詩人金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」(『私と小鳥と鈴と』の一節)という詩に心を打たれた人は数知れませんし、ひとりひとりが無二の個性をもっているんだ、それでいいんだ──と唄うアイドルグループの楽曲もかつておおいに共感を集めました。いまだ数々の差別が蔓延る社会にあっても、人それぞれの個性を尊重しよう、それを互いに受け入れようという認識や風潮自体は、基本的にはメジャーだと考えていいのでしょう。しかし、現実的な行動の上ではどうなのでしょう? 「ああ、あの人はあれだから……」と、人の個性や生き方をカテゴライズし、色眼鏡で見ていることはないでしょうか。響きのよい詩や歌のフレーズに心を揺さぶられても、一過性の表面的な共感で終わってしまうのでは、差別に対し無頓着の人間とほぼ同罪です。メッセージが内包している「意味」を咀嚼し自らの行動が伴ってはじめて、私たちのまわりの半径1メートルの世界は変化の兆しを見せるのでしょう。人間、特に大人は自己欺瞞の天才です。個性を尊ぶことを高らかに謳いながら、自覚症状もないままに平気で差別の目をもっていたりもします。私たちが本気で子どもたちに何かを訴えようとするならば、絵本や童話の作家になりたいと思うならば、なおいっそう人間のこうした人格の二重性を織り込み済みのものとして、その上で「個性」の意味を考えてみる必要があるでしょう。

子ども時代の忘れがたい時間のなかにある“何か”を伝えよう

いきを とめていると、しかの あかちゃんは、わたしが
さわれるくらい ちかくに よってきました。
それでも うごかずに だまっていると、しかの あかちゃんは
もっと ちかよってきて、わたしの ほっぺたを なめました。

(マリー・ホール・エッツ著・与田準一訳『わたしと あそんで』福音館書店/1968年)

子どもの行動は、ときとして大人には理解しがたいものであったりします。その反対に、大人が子に発する言葉も案外熟考されておらず場当たり的だったりします。ひとり遊びばかりしていればお友だちと遊びなさいと注意し、虫ばかり見ていればそんなものに触るんじゃないわよと釘を刺す。この手の投げかけは大人の一方的な「考え」というより「思いつき」でしかなく、ひょっとすると、子どもの個性や才能を否定することに繋がってしまうかもしれません。思慮深く、正しき線の引かれた“見守り”というものは、大人が子どもに対して一番に留意すべきこと──なのに。マリー・ホール・エッツの『わたしと あそんで』は、そんなことに思い致させ、子どもの個性の自由な伸長を促してくれる絵本です。

『わたしと あそんで』は、主人公の少女「わたし」がひっそりと楽しげに森の動物たちと触れあっていく様子を描く物語。ひとり野原に遊びに出かけた「わたし」は、いろいろな動物に「あそびましょ」と近寄っていくのですが、皆逃げてしまいます。けれど「わたし」は泣きもせず、その場を去るでもなく、ただじっと石に腰かけて池の水面を滑る水すましを眺めています。森の静寂に満ちた時間はどれくらい過ぎたのでしょうか。やがて「わたし」のもとへ、うさぎやらりすやら動物たちが戻ってきます。しか(鹿)の赤ちゃんが頬を舐めても「わたし」はじっとそのまま。皆に遊んでもらってとってもうれしいの──と幸せそうに微笑む「わたし」は、森に流れる時間とそこに生きる動物たちに心を合わせることのできる女の子なのです。そんな物語は実は、誰もが微笑ましい“つくりもののお話”ではありません。少女のころから自然に親しんで育った、著者マリー・ホール・エッツの体験に基づいた作品なのです。もちろん、絵本や童話を描くのに森での自然体験が必要なのだ! なんていう短絡的な話をしたいのではありません。けれども、子どもであった自分を伸び伸びと育んでくれた“何か”は、あなたの心のなかにも存在するはず。それこそは、物語に瑞々しい躍動感や優しい説得力をもたらしてくれる、絵本・童話作家になりたいあなたの大切な財産であるに違いありません。

“ひとりぼっち”の少女が心の自由を教えてくれる物語

顔だけが暗い窓にあった。一度だけ見かけたあの子だった。
その子はわたしを見ていた。
こんばんは。わたしが言うと、
その子は口をとがらせて、「しゅー」と音をたてた。
「なんの音?」尋ねると、
「へびの声」その子は言って、くっと笑った。

(著者:岩瀬成子・絵:上路ナオ子『まつりちゃん』/理論社/2010年)

岩瀬成子の『まつりちゃん』にはちょっと不思議な境遇の少女が登場します。主人公のまつりちゃんは5歳、なのに、どうもひとりで暮らしている様子なのです。ふっと、そこかしこに姿を現しては人々に話しかけ、それぞれに事情を抱える町の人たちもはじめは訝しく感じているのですが、この不思議な少女まつりちゃんと触れあっていくうち、いつしか心の重荷を下ろしている自分に気がつくのでした。

この物語を読んで、小さな女の子がひとりで暮らしている設定なんて感心できない、そもそも児童虐待じゃないかなどと、突然、現実的な論調で評するのは見当はずれというもの。だって、もっととんでもない設定で主人公が活躍する絵本やアニメを親子で楽しむことだってあるではないですか。物差しで測ったような大人のジョーシキ的な姿勢は、ときと場合によっては、子どもの心の成長を阻むことだってあります。もし『まつりちゃん』を読んだ子どもが、自分もひとり暮らしをしたいと言いはじめたら、笑顔でいったん受け止めて答えを考えればよいこと。それはむしろ、親子にとって将来を語らう思いがけない素敵な時間となるのではないでしょうか。『まつりちゃん』は、そんなふうに、読者である子どもにも大人にも、小さな奇跡をもたらしてくれる物語なのです。

子どもの個性と心を健やかに育む──絵本・童話作家の使命

現実社会での子どものひとり暮らし(そういった境遇に陥らざるを得ない家庭環境)をはじめ、大人が子どもに見せたくないと思う現実といったら、世の中にはそれこそ数限りなくあります。大人というものは総じてそれらを子どもの目に触れさせまいとしますが、実際子どもたちが生きていかなければいけない現実の世界について、いつごろ、どれを選んで教えていくべきかという点について、とりわけ日本ではあまり丁寧には考えられていない、あるいはまったく考えられていなかったりします。絵本や童話の世界にしても、世の中の実情や、子どもの現実的な成長において、いささか乖離した、きれいなもの、かわいいもの、楽しいものとして済まされてしまうことは往々にしてあるようです。妙に教育者面したキレイゴトばかりが並んでいる絵本作品が目につくのはそのせいです。汚いものにも蓋をせず、闇雲に子の目をふさぐこともなく、瞑らせることもなく、目の前の現実をどのように子どもに見せたらよいかと考えるのは、大人の大切な務めのはずです。子どもの個性も心も、現実のなかでたくましく育っていく栄養豊かな土壌が必要。そして絵本や童話は、その土壌を耕してくれる役割を担うものです。未来のため、次代を担う子どもたちのため、物語を書く、作家になると志すあなたの責任は大きいけれど、それは価値ある美しい仕事に違いありません。

※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。

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