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文芸が好きで、自分も何か文章を書いてみよう──と思い立った人にとって、「エッセイ」は比較的気軽に取り組める創作ジャンルです。Webで展開するブログやnoteなど長文系のSNS、個人的な日記だって、大きなくくりのなかでは「エッセイ」と呼んで差し支えありません。「文章を書く」ことそのものには特段のハードルなどないのですから、気楽に文章に親しむ感覚をもつのはとてもよいことです。思ったこと、感じたことを素直に書き記すという日常習慣は、作家になりたいと夢抱く人にとっても、創作に向き合っていく入り口にもなり、執筆の手軽なエクササイズとして有効といえるでしょう。何より精神的なデトックス、頭や心のなかを整理するのに、文章を書くことほどうってつけの取り組みはありません。
ここで「今回の書きブロさんいいこと言うなぁ」とホッコリしていただいたなら、 相すみません……やはり多少スパルタンなもの言いをさせてください。フィジカルなエクササイズだって、鍛えたいと思う筋肉を鍛えようと意識することで効果が上がります。漠然と腕立て伏せをしていたって思うようなカラダづくりはできないはず。 文章にしてもそれは同じことなのです。進歩進化しようとする意識をもつことが重要。では、文章創作技法上、進歩や進化の方向性をどのように考えるべきか。それは、自分のなかのありのままの自分を見つめようとする知覚を磨くこと、です。すなわち、己の内なる自然に向き合う姿勢をもつことが大切なのです。
「ネイチャーライティング」という言葉をご存じでしょうか。大きくは「自然全般に関するノンフィクション文学」と定義され、野外ガイドから博物誌、紀行文、生活記とそのカテゴリーは多岐にわたりますが、自然科学分野の観察記とは、個人的な思索や哲学的な思考の根が下ろされているという点で大きく異なります。その代表作としては、たとえば、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『ウォールデン 森の生活』(当ブログ記事『人と自然を洞察するエッセイには未来が映る』参照)などが挙げられます。
さて、この「ネイチャーライティング」に属する一冊で、「本を書く」ためのノウハウとして、己の内なる自然──ありのままの自分──を探すことを定義した著作があります。その名も『本を書く』。このド直球のタイトルは、当ブログのタイトル「本を書きたい人が読むブログ」にも通じるものがありますが、作者が米国のピュリッツァー賞受賞(1974年)作家アニー・ディラードと来ては、気が引けて「通じる」などとはおいそれとは言えません。その比類なく洗練された文章で高い評価を受ける彼女は、極めて逆説的な論調で、書くということは思考の道筋を辿ることではあるけれど、その道筋を文章に残してはいけない、それは読者にとって邪魔ものなのだ、思考の過程を削ぎ落とした結論こそが残すに値する文章なのだと語ります。さらに、その文章は一回きりのもの、使い惜しんではいけないと、さながら剣豪の一閃の剣技の心構えを説くのです。
書くことについて私が知っているわずかなことの一つに、一回一回、すぐに使い尽くせ、打ち落とせ、弄べ、失え、ということがある。(中略)あとでもっと適当なところで使うためにとっておきたいと思う衝動こそ、いま使え、というシグナルである。
(アニー・ディラード著・柳沢由美子訳『本を書く』パピルス/1996年)
多少の心得のある書き手ほど、少し耳の痛い言葉なのではないでしょうか。確かに、自らの思いを書き綴るとなると、私たちはその道筋までも残しがちです。おそらくそこには、文章を自己表現の産物と思うなかでの誤解があるのではないでしょうか。文章が自己表現であることに間違いはないけれど、それは自己を表現していく過程を冗漫に記すことではなく、削ぎ落とした一期一会の表現のなかに「自己」を見せることこそが本質であり、それが作家の伎倆(ぎりょう)であるはずなのです。そしてディラードは、己の内なる自然に向き合うことから、あなたが真実書くべきテーマが生まれてくると、作家になるための道をも指し示すのでした。
人の特別な性癖─ものごとに夢中になること─について書かれたものが、なぜないのだろう。他の誰からも理解されない自分だけが夢中になるものについて書かれたものが。その答えは、それこそまさに、あなたが書くテーマだからだ。なぜかはわからないが、あなたが興味をそそられるものがある。書物で読んだことがないので、説明するのは難しい、と、そこからはじめるのだ。
(同上)
この言葉は、自己表現としての高い意識をもったエッセイを書く上で、また、小説を書く場合にも心したい示唆に富んだ金言といえるでしょう。「他の誰からも理解されない自分だけが夢中になるもの」──それこそは、内なる自然のなかで完全に自由なあなた自身を表すひとつのもの。磨かれたエッセイを書くために、自分にとって「夢中になるもの」とは何か、なぜ夢中になるのか、と思考してください。しかして、その思考の道筋を書き残してはいけません。もとより、言うは易く行うは難し。けれどもそれが、優れた作品を書くための王道であることをどんな書き手も心得ておく必要があるのでしょう。
最後に、アニー・ディラードが自らの内なる自然に向き合って綴った文章を紹介して本稿を締めることといたしましょう。それは、もちろん思考の過程もなければ、結論を告げるような独白もなく、彼女が打たれた自然の風景として表現されています。永遠に鳴り響くこのリフレインの向こう側に、あなたなら何を感じとって自身の創作にフィードバックすることでしょう。こんなあてどもない思索もまた、書き手としての土壌を豊かにするに違いありません。己の内なる自然に向き合って、目指せ文章の達人! 気高き作家、エッセイの名手の第一歩はいま、ここからはじまります。
4フィート先の、ぼうぼうに生えた野バラの大きな茂みの下から姿を現わしたイタチは、驚いて凍りついた。わたしも幹に坐ってうしろをふり向きざま、同様に凍りついた。わたしたちの目と目は錠をかけられ、その鍵を誰かが捨てたようだった。
わたしたちの表情は、ほかの考えごとをしていて草深い小道でばったり出食わした恋人どうし、もしくは仇敵どうしのそれだったにちがいない。意識を澄ませる下腹への痛打か、あるいは脳への鮮烈な一撃か。それとも、こすりつけられた脳の風船どうし、出合いがしらに静電気と軋みを発したのか。それは肺から空気を奪い、森をなぎ倒し、草原を震わせ、池の水を抜き去った。世界は崩れ、あの目のブラックホールへともんどり打っていった。人間どうしがそんな見つめ方をすれば、頭はふたつに割れて両の肩に崩れ落ちるほかはない。だが、人はそれをせず、頭蓋骨は守られる。つまり、そういうことだった。
(アニー・ディラード著・内田美恵訳『石に話すことを教える』/めるくまーる/1993年)
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