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いきなりですが、あなたがもし「小説家になりたい!」と日夜創作に向かっているとしたら、なぜその志をもつに至ったのか、胸に問うたことはありますか? いやまあ、知的な感じでかっこいいとか、印税で左団扇を狙いたいとか、有名になりたいとか、異性にモテるかもしれないとか、私利的な野望はいろいろとあるかもしれません。もちろんそれが悪いということはまったくありません。むしろ、それを動力源として邁進し、少しずつでも高みを目指していけるなら、それは立派な動機だと同じ道を歩む同志に向けて奨励されるほどです。
では次に、立身出世の手段を「小説」と定めたのはどういう理由からなのか、そもそもどうして小説を書こうと思ったのか、と少し質問を変えてみます。なぜこのように問うのかといえば、小説を書き進化していくうえでの重要な鍵がここにあるからです。なぜ小説を書こうとするのか──。この質問に対し、それは小説を読んだからだ──と断じたのは、「内向の世代」と呼ばれた作家のひとり、後藤明生です。そして後藤は、書くためには「いかに読むか」が重要であるとして小説論を残しました。「読み方」から「書き方」の道を照らしてみせた、そのタイトルも『小説──いかに読み、いかに書くか』と付された一冊。そのなかには、小説家になりたいと日々念ずる者が「小説の素材をいかに扱うべきか」の重要な示唆を読みとることができます。
「私小説」という小説ジャンルがあります。作家自身の実体験を素材にした小説のことをいい、ある種ガラケーのように、日本列島で独自にやたらと進化を遂げた1ジャンルです。明治終わりから昭和の戦後あたりまでがいわば流行期で、その後も平成令和となって現在に至るまで、あらゆる形態の小説ジャンルが台頭してもなお一定数の私小説が毎年毎年世に産み落とされています。つまり私小説というジャンルは、海外では多数派とはいえないにせよ、小説を日本語で読んで書く日本人にとっては非常に身近であり、誰もが拒絶反応を示すことなく生来の「感覚」として知っている自己投影の方法なのかもしれません。といった具合に、世界に飛び立つ前にひとまず日本国内で小説を発表するのであれば、私小説の創作作法に学ぶことは多く、つまりは小説を書くにあたり「経験」は普遍の題材で、それをいかに料理するかを知ることは極めて重要であるといえるでしょう。
『小説──いかに読み、いかに書くか』において、後藤明生は自身の私小説の「読み方」をまず説いて、小説を書くうえでの要諦を示しました。その際テキストとして取り上げたのは、日本における私小説の嚆矢ともいわれる田山花袋の『蒲団』です。
数多い感情ずくめの手紙──二人の関係はどうしても尋常ではなかった。妻があり、子があり、世間があり、師弟の関係があればこそ敢(あえ)て烈(はげ)しい恋に落ちなかったが、語り合う胸の轟(とどろき)、相見る眼の光、その底には確かに凄(すさま)じい暴風(あらし)が潜んでいたのである。機会に遭遇(でっくわ)しさえすれば、その底の底の暴風は忽(たちま)ち勢を得て、妻子も世間も道徳も師弟の関係も一挙にして破れて了(しま)うであろうと思われた。少くとも男はそう信じていた。
(田山花袋『蒲団・重右衛門の最後』/新潮社/1997年──ルビ含むテキストの引用は青空文庫より)
『蒲団』は、弟子入りしてきた女学生への恋心と性欲に身悶えする主人公の中年作家が、ついに彼女との別離に至るまでの心情を追っています。1907(明治40)年発表、そのむかし中学校あたりの国語教科書にも掲載されていましたが、いまや古色蒼然の感なきにしもあらずのこの小説が、平成に至るまで70刷以上を重ねているというのは、実にちょっとした驚きではありませんか。
タイトルの『蒲団』は、
女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟(えり)の天鵞絨(びろうど)の際立(きわだ)って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅(か)いだ。
(同上)
と、主人公の性的妄執を表すものとなっているわけですが、その生々しい性欲の吐露は当時世間に衝撃を与え、モデルが実在することも相俟ってスキャンダラスな反響を呼びました。ここから数々の『蒲団』論と論争が生まれたことは、当然の成り行きでもあったでしょう。文芸評論家・中村光夫は自著『風俗小説論』において、花袋の『蒲団』はキリスト教的告白文学の骨子もない、主人公(=花袋)が自分の滑稽さに気づかぬままの露悪的自己陶酔の産物だとして私小説批判を展開しました。これに断固反論したのが後藤明生の『小説──いかに読み、いかに書くか』でした。さて、後藤の反論における“小説を読む眼”とはどのようなものだったのでしょうか。この論証の眼には、「読む」に対する中村光夫との歴然とした差が現れています。
新橋にての別離、硝子戸(ガラスど)の前に立ち候毎に、茶色の帽子うつり候ようの心地致し、今猶(なお)まざまざと御姿見るのに候、山北辺より雪降り候うて、湛井(たたい)よりの山道十五里、悲しきことのみ思い出(い)で(後略)
(同上)
これは小説終章、男子学生との恋仲が発覚し郷里に返された弟子の女学生が主人公の中年作家に宛てた手紙の一節です。この手紙を読んだ作家は、嫉妬やさまざまなしがらみから彼女を送り帰したものの未練断ち切れず、上掲のシーンのとおり蒲団の匂いを嗅いで泣き伏し──ほどなく物語は幕を閉じます。中年男の哀れ立ち昇るこの物語を、文芸評論家・中村光夫は、花袋が滑稽さに気づかずに自分を書いたと批判したわけです。いやまァ確かにいやまァ確かにね、ヘンタイです。ヘンタイ中年としかいいようのない男です。ただしここは「文学」の世界。日常一般の倫理観をもち込んで作品を論じても詮ない異郷の地。中村の吐き捨てるような批判に対して、いっぽうの後藤明生は、前段の手紙の一節「茶色の帽子」に鋭い眼を向けます。この前章、女学生が作家の家を出るところを物陰から覗く男がいました。女学生と恋仲になった男子学生で、人知れず恋人を見送る彼が“茶色の中折帽を被っている”と、さりげない描写が差し込まれています。同じ茶色の帽子を被って女学生と別れた作家は、女学生の手紙に自分との別れの悲しみを読みとって後悔もし泣きもしたわけですが、実は手紙の「茶色の帽子」は男子学生のそれで、女学生の悲しみは男子学生との別れにこそ向けられていたとわかります。注意深く目立たぬよう「茶色の帽子」を仕込んだ田山花袋は、無論、自分の分身である作家をとことん滑稽に戯画化してみせたのです。この秘められた作意に気づいてもなお花袋を、主人公と自分をダブらせるただのヘンタイ中年と断ずることができるでしょうか。
名のとおった文芸評論家が見過ごすくらいですから、『蒲団』の戯画化はむしろ巧妙で迫真的であったといえます。あるいはヘンタイ具合が度を越していたがゆえに、精度を保った評論ができないほどに読み手を興奮させてしまったのかもしれません。このあたりに関して、後藤はこんなふうに述べています。
真相──ホンネをいかに書くか、(中略)わが国文壇で、「文章」だの「技巧」だのを唱えている雅俗折衷派、古文派などの文章では、それは表現できない。新しいホンネには新しい文章が必要である。
(後藤明生『小説──いかに読み、いかに書くか』/講談社/1983年)
今回本稿を書くにあたり、あらためて見返してみれば72刷も重ねていた田山花袋の『蒲団』。それが花袋により産み落とされた当時においては、西洋の告白文学の模倣などではなく、新しい本音を新しい文章で著した画期的な日本文芸であったのかもしれません。小説を書くこと──それは、既成の価値観や概念を破壊して、斬新ながらも誰もが心の根にもともと携えていたであろう感性を引き出す営為。そして小説家とは、それを文章でもって執り行う人のことをいうのでしょう。つまるところ、それを目指すならば「新しい本音」を表す「新しい文章」を見極めるべく細心の眼をもって、まずは一読者として「読む」ことに取り組まなくてはならないのでしょう。小説を書く理由、それは辿っていけば小説を読んだからこそ。けれど、甘く浅い読み方をしていれば、鋭敏な小説を書く境地に辿り着くことは難しい。「いかに読み、いかに書くか」──深く読み解く力は必ずや書く力に転化されます。読む力を養うことを小説修行のひとつと心得、ぜひともさらなる進化の一歩へと踏み出してください。
※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。
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