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ご存じのとおり、童話には名作と呼ぶべきものがいくつもあります。イソップ、グリム、アンデルセンといった世界三大童話はいわずもがな、数多くの童話作品が古今東西で愛されつづけています。そのどれにも一切触れてこなかった人はいないのでは? と思えるくらい、各出版社がこぞって「童話名作選シリーズ」を刊行しています。「童話」というジャンルが、ここまで廃れず残りつづけているのは、幼いころに触れた物語世界を我が子にも体験させたいという親心が働くからかもしれませんし、「三つ子の魂百まで」のごとく、大人になっても再読するたびに誰もが童心に帰ることができるからかもしれません。
ひと言に「童話」といっても現代ではさまざまな作風がありますが、端的にいって「子ども向けの民話・神話・寓話」という定義が太い軸となっていることは間違いないでしょう。非現実的なファンタジー世界が舞台背景となることも多く、夢や不思議に満ち溢れた幻想空間は、子どもの想像力と健全な情緒を養ってくれるという意味でも大切です。けれどももしその世界が、現実と完全に分離された空想一辺倒であったらどうなるでしょう? 子どもたちのなかで「童話」と「現実」はまるきり別モノとなってしまいます。また、世界中で読み継がれるような名作童話に目を向けると、思いがけないほど生々しい現実が反映されている作品をしばしば見かけます。つまり、童話を書くといったって、誰もが発想し得ない独創性をもって純度100パーセントのファンタジーを目指す必要はないのです。真に重要なのは、豊穣なリアリティを湛える物語世界の構築です。そんなわけで、童話を書こうとする前に、何が何でも空想!空想!と思う必要はありません。つい傾きがちになるそうした姿勢にはしばし待ったをかけ、むしろ童話のなかに織り込む「リアル」にこそ目を配りたいもの。本稿では、童話内において「リアル」がどのように働くものなのか、読者の皆さまと一度検証してみたいと思います。
さしあたり、童話を童話たらしめる要素──寓話性──を取り上げてみましょう。寓話とは、人間生活をモチーフに寓意を込めて描かれたお話で、ある別個の事例をもって、教訓など汎用性のある解釈を引き出す文章作品のこと。名作といわれる数々の童話にはまずこの要素が含まれており、庶民の暮らしが映し出される作品が多いですよね。たとえば『フランダースの犬』は貧しい少年の悲劇ですし、オスカー・ワイルドの『幸福な王子』は、民の貧困や不幸と王子の自己犠牲の果ての哀れな末路が描かれた風刺物語です。夢いっぱいのワクワクするような非現実世界はなるほど手放しですばらしい、しかしそこに「リアル」の芳香が漂うからこそ、ファンタジーの魅惑はより際立つ、ということもありそうです。そして、オスカー・ワイルドの時代に庶民の貧困があったように、リアルにはその時代その時代の「特有のリアル」があります。
いまから何十年かまえの、ある晴れた春の朝のできごとでした。いまでいえば東京都、そのころでは東京府のずっとずっと片すみにあたる菖蒲町という小さな町の、またずっとずっと町はずれにある氷川様というお社の、昼なお暗い境内を、ノンちゃんという八つになる女の子がただひとり、わあわあ泣きながら、つうつうはなをすすりながら、ひょうたん池のほうへむかって歩いておりました。
『ノンちゃん雲に乗る』の主人公ノンちゃんは8歳。大病を患ったことがあり、優等生でよい子と折り紙つきの少女です。ある日、ノンちゃんはわあわあと大泣きしながら神社の境内にやってきました。理由はというと、母と兄が自分に告げずに出かけてしまったから。ノンちゃんは、それぐらいのことでこんなに泣く? と思うくらいの激しさで泣きじゃくりますが、ここにまだ幼い少女の人物像がまずほんのりと浮かび上がってきます。自分で自分を優等生のよい子と思っているフシのあるノンちゃん。そんな彼女を置いていってしまったのは、大好きな母と、いつも自分をいじめてくる兄。ノンちゃんから見れば、母の慈愛を享受する資格のない不出来の塊のような存在です。そのふたりがそろって黙って出かけてしまったのです。ノンちゃんはいろいろなことが許せず、我慢できず、ここは泣かなければならないから泣くのだ! とわんばかりにこれでもかと涙を流していたのでした。それから境内の木に登ったノンちゃんは、その下の雲を映す池に落ちてしまいます。水面に広がる雲の海をあっぷあっぷ泳いでいるところを助けてくれたのは、仙人のようなヒゲモジャのおじいさんでした。そうして、このおじいさんとノンちゃんのあいだに、問答のような会話が交わされることになります。
おじいさんはノンちゃんの言うことにはどこか否定的な態度で、ノンちゃんのような子はいつかしくじるぞ、と脅かし、むしろ兄の肩をもつのでした。それにノンちゃんが反発するのは無理からぬことですが、いつしかノンちゃんは、おじいさんとの会話を通じて「家族」や「自分自身」に正直に向き合うようになります。やがてもとの世界に戻りたくなったノンちゃんでしたが、だったら「ひとつうまいうそをついてもらおう」とおじいさんは言います。それを聞いて、さっきよりもっと大泣きに泣いて「自分は嘘が嫌いだ」と叫ぶノンちゃん。おじいさんはそんなノンちゃんを慰め、もとの世界に帰すことにします。ぎゅっと目をつぶったノンちゃんが再び目を開けると、布団に寝ている自分を心配そうに覗き込む家族のいくつもの目が飛び込んでくるのでした──。
著者である石井桃子が『ノンちゃん雲に乗る』を執筆したのは太平洋戦争中のこと。作中、戦争それ自体が真正面から描かれることはありませんが、兄の成長や同級生の死を表す、さりげなくも重要な意味をもつ背景となっています。また、物語の結末には、成長し医師になろうと勉強するノンちゃんの姿が描かれています。子どものころから学業優秀なノンちゃんですから、その後も怠ることなく勉強に励んできたのですね。つまり『ノンちゃん雲に乗る』は、主人公ノンちゃんの成長を描いた作品ともいえるのですが、単純な成長物語でないことは、ノンちゃんの少女時代の不思議な体験、死と隣り合わせた体験によって示されています。いわばファンタジーとリアルの独特な融合──『ノンちゃん雲に乗る』のリアルは「戦争」であり、病気や木からの転落で死にかけたノンちゃんの体験を通して浮かび上がる「死」なのです。さらに、何よりも大きなリアルは、主人公の少女の人間性に深く踏み込んだ“筆”にあるでしょう。ノンちゃんが死にかけることもなく、ヒゲモジャのおじいさんに出会うこともなければ、その後の展開はどうだったのか。それは知りようがないとしても、子どもの成長を方向づけるのは、こうした大小さまざまなきっかけであることは明白です。ひとりの子どものリアルな像を、戦中戦後の時代を映し出しながら描いたファンタジー。『ノンちゃん雲に乗る』は、そんな解釈もできる童話に仕立てられています。
時代にはその時代に相応しいリアルがあるものです。いまの時代の日本でいうと、圧政による庶民全般の貧困や戦争の災禍はないかもしれません。けれど、子どもが子どもの心で知っておくべきリアルはいつの世にも必ずあるはずで、それは現代日本においても間違いなくあります。『幸福な王子』も『ノンちゃん雲に乗る』も一大ベストセラーとなりました。オスカー・ワイルドも石井桃子も、こんなの書いたら売れるぞ、などと考えて創作に臨んだわけではないでしょう。しかし、売りたい、売ろう、と思って児童文学執筆に挑んで、他人に「邪な精神だ」と謗られるいわれはありません。売れるとはつまり、多くの人に読んでもらうと同義なのですから。無論、売れる要素を計算したつもりが、中身ヘロヘロなんていうのでは元も子もありませんが、絵本・童話を書くのなら、ひいては創作活動全般にもいえますが、時代性をピンポイントに突いて勝機を見逃すべきではないでしょう。童話の歴史がいにしえより連綿と長い道のりを経たいまこそ、「この時代のリアル」とは果たして何であるのか──探り当ててみてはいかがでしょうか。
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