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樹木希林に学ぶ「イズム」

2024年11月01日 【作家になる】

自分のなかの「イズム」の探し方

問い:「シソー」と聞いて思い浮かべるのは何ですか?

答え:「死相」45% 「歯槽膿漏」35% 「思想」20%

これを見て「何のアンケート調査かな?」と思いを巡らせた方、……すみません、こんな統計結果は実在しません。ですが、当記事を書く筆者がこれらパーセンテージをもって何を言いたいかというと、「思想」が20%というのは、あながち間違っていないんじゃないか、少なくとも回答の大半を占めることはまずないのではないかということです。あくまで肌感ですが。しかし近ごろどうにも、「思想」という言葉を目にする機会が少なくなったと感じるのは筆者だけでしょうか。例えばこの24時間以内に「思想」という言葉を発したり聞いたり読んだりした?──と皆さまに問えば、おそらくは「いいえ」の山でしょう。じゃあ48時間まで遡れば?──にしたって同じ回答群なのではないでしょうか。ほとんどの方が、ことさら珍しい単語ではないけれど、ふだんの暮らしのなかで「思想」という言葉に接する機会はあまりないのではないでしょうか。

「思想」といえば、かつては芸術全般はもちろんのこと、文学の分野にあっても、切っても切れない関わりをもつものでした。ロマン主義、自然主義、モダニズムにポストモダン……と「思想」は一大ムーブメントとなって延々と移りゆくものだったのです。絵を描く者も小説を書く者も我も我もと太い潮流に飛び込んだ結果、思潮として社会全体に顕在化するものでした。ところがいまや「思想」の支配力はすっかり弱まり、局所的で異端のキケン分子かのように扱われたり、特定分野のターム(学術用語)化しつつあるような気がしないでもありません。「シソー」と問うと「えー、それって死に顔ー?」なぞとボケるがごとく、死に顔ならぬ死語同然、場外に追いやられたしまった感すら漂います。

そもそも「思想」という言葉がもう重いですかね。それを冒頭から多用し縷々申しましたが、「思想」それ自体が現代人の意識からすっかり遠のき、小説を書くにも忘れ去られてしまったかというと、そうではありません。まったくそんなことはないのです。なぜなら「思想」とは、読んで字のごとく、人間が心に思ったり考えたりすることそのものだから。ある意味、人間の原初的な生命活動──思惟──があるところには、大小さまざまな形でそれは存在するといっていいでしょう。そんなふうに、これといった権威ある姿を示さずとも、「思想」はかつてとはまた別の定義をまとって、小説にも、そして社会においても息づいているのです。いまなら「イズム」と呼んだほうが、自然と入ってくるかもしれませんね。もちろん「イズム」は、〇〇主義の「主義」にあたる部分ですから、国家や民族など大きな流れを指して用いられることもありますが、日常で使う場面では「流儀」と換言しても差し支えないほどに、細分化、固有化している気配が濃厚です。個人名を冠しての〇〇イズム、△△企業のイズム。小説にもエッセイにも、そうした孤高にして確固たるイズムが密やかに息づいていると考えてよいと思います。「小説に思想? そんなの関係ねぇ」などと嘯いてはいけません。作家になりたい、小説を書きたいのであれば、自らの「イズム」を育て、モノにすることはまことに重要なのです。もしあなたが、まだイズムの芽らしきものもないし、イズムを探す指標もないと俯いてしまうなら、断固たる主義主張を貫くほかの誰か、どこかのイズムにヒントを得たっていいのです。そんなわけで今回は、燦然と輝く現代のイズムに触れてみることとしましょう。

名女優の「イズム」が人生を教える

2018年に75歳で世を去った俳優の樹木希林は、その死の刻(とき)まで、歯に衣着せずに「自分の言葉」を語り、ファンを魅了しつづけたことはもちろん、広く一般にも別格視される唯一無二の存在でした。他者にも世間の常識にも左右されない、まさに「樹木希林イズム」と呼ぶに相応しい信念を生涯貫いたように思われます。その確固とした生き方に、影響されたり、心癒されたり、考えさせられたりした人は多いことでしょう。たとえば死生観については、こんな言葉を残しています。

「人は死ぬ」と実感できれば、しっかり生きられる

樹木希林『一切なりゆき 〜樹木希林のことば〜』/文藝春秋/2018年

乳がんになったことをきっかけに、命の限りを見据えたことで、死生観を新たにしたという希林さん。「(人生が)終了するまでに美しくなりたい、という理想はあるのですよ。ある種の執着を一切捨てた中で、地上にすぽーんといて、肩の力がすっと抜けて」──肩の力を抜き「すぽーん」と佇むたったひとりの存在を認めること。それは自分自身を無理なく自然に愛せるということ、真の自由の獲得を意味するのかもしれません。死に至る生とは、それを学び知っていくこと──と考えさせられます。

健康な人も一度自分が、向こう側へ行くということを想像してみるといいと思うんですね、そうすると、つまんない欲だとか、金銭欲だとか、名誉欲だとか、いろんな欲がありますよね、そういうものからね、離れていくんです

樹木希林・田川一郎『樹木希林 ある日の遺言 食べるのも日常 死ぬのも日常』/小学館/2019年

自分が死ぬという想像は、絶対的にネガティブです。生きとし生けるもの……と泰然と捉えようが、“ああいつかそんな日が来るさ”としたり顔でかまえようが、真に詰めたところでよくよく想像できているのか? と問われると、心許なくなってしまいます。だって大多数の人は、根本的に死にたくないとの思いが強くあるわけで、そりゃあいつかは死ぬ、とわかってはいても、「向こう側」のことはあくまで漠然とした想像に留まらざるを得ません。もっといえば、「向こう側」に至らないまでも、日々衰えていくこと、つまり「老い」に抗いたい気持ちは誰にだって自然とあるわけですが、いっぽうでそうした方面への思索をスルーしてしまいたい自分だっているはずです。寄る年波とともに増す心身の不調、痛みや苦しみを、希林さんはどう考えていたのでしょうか。

不自由なものを受け入れその枠の中に自分を入れる。年をとるというのは、そういうことです。

樹木希林『一切なりゆき 〜樹木希林のことば〜』/文藝春秋/2018年

自身のがん罹患を幸運だったと語ったことのある、希林さんらしい一節です。さて、樹木希林と内田裕也のユニークな夫婦関係は世間にもよく知られるところですが、離婚騒動や別居生活を、「乗り越えて」というよりそれすら「結婚の一部」であるかのように受けとめて、ふたりはついに生涯添い遂げました。その結婚観はといえば──

同棲するなら、籍を入れた方がいいわよ、それは。だって同棲っていうのは、別れちゃったら嫌なものが何も残らないから。その気軽さは、人生においては無駄ね。そんな生ぬるい関係を繰り返しても人は成熟しない。

(同上)

深いです。ただただ深い。自己防衛、リスク回避こそが「大好きな自分」を守る得策のように叫ばれる昨今において、この言葉は完全に逆張りです。自分が傷つかないように、面倒を被らないようにと考えるのではなく、リスクをとることで得られる物事に目を向けるべし──と、いわゆる「リターン」の最大化をロングスパンで見る発想なのです。ちなみに「仕事」については、次のように語っていますが、これは仕事のみならず生き方全般に通じるものといえましょう。

俯瞰で見ることを覚え、どんな仕事でもこれが出来れば、生き残れる

(同上)

「俯瞰で見る」ということは、単にぐるりと見渡すのではなく、周囲の状況を把握し思いやって、自分のあり方に一本筋をとおすことでしょう。樹木希林は、まさにそのように生きた人物のように映ります。彼女の生き方をさらりと表すのに好適なひと言があります。

おごらず、他人と比べず、面白がって、平気に生きればいい

(同上)

「希林さんが、これだけ多くの人から愛されるのは、家族や夫婦のこと、仕事のこと、病や体のこと、人生のこととか、いろんな困難と向き合い、闘いながら、やっと到達した境地が彼女の芸から滲み出ていたからなのでしょう」と語るのは、樹木希林と30年以上に亘って親交のあったテレビプロデューサーの田川一郎氏。そう、樹木希林が人への影響力をもったのは、ユニークな生き方をしたからでも名言を残したからでもなく、それ以前に、俳優として精一杯生き抜いてきたから。作家を志す人にも通ずるだろう「生き方」と「成す仕事」の相関です。これは忘れずに胸に刻んでおきたいところです。

「イズム」なきところ成功も幸福もない

お金や地位や名声もなくて、傍からは地味でつまらない人生に見えたとしても、本人が本当に好きなことができていて「ああ、幸せだなあ」と思っていれば、その人の人生はキラキラ輝いていますよ。

(同上)

「樹木希林イズム」は、はじめから頑固に主張されてきたものではなく、己の身に起きたことや周囲の環境を、嘆いたり反発したりで縮こまるのではなく、受け入れて、そのなかに自分らしい居場所を見出していく過程で培われていったのではないでしょうか。書籍タイトルにある「一切なりゆき」は、樹木希林が折に触れ口にした言葉であったそうです。それは彼女一流の“嘘”といいますか、含羞混じりの言葉の綾、とでも申しましょうか。だって彼女は、物事にただ弱々しく身を任せたりなどは決してしない人です。長いものに巻かれる人ではないのです。人はともすれば漫然と生き、そこに体のいい言いわけやきれいな飾りをくっつけて、「なりゆきまかせさ」なんて嘯くこともありがちです。しかし確かなイズムが貫かれる本物の「なりゆき」とは、もっとずっと心地よい風が吹くもの。「なりゆき」と「なげやり」は似て非なるものなのです。

さあ、本を書きたいと胸ふくらませるあなたは、自分の「イズム」はこれというものをもっていますか? もし自信がないとすれば、今回ご紹介した数冊にそのヒントや指針が見つかるかもしれません。「イズム」なくしては、作家になることのみならず、どんなジャンルにおいても真の成功も幸福も望めない──希林さんに関する本稿を書きながら、筆者もまたその思いを強くしました。

※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。

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