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「成功」には人それぞれさまざまな定義や形があるにせよ、作家になりたい人もそうでない人も、その大多数は、認められたい、いい仕事をしたい、自分の才覚を活かしたい──といった思いを抱いていることは間違いないでしょう。人により濃淡あれど、仙人でもなければおそらく誰もが、自尊心から来る“自分への期待”を心に携えているのが自然です。そうした人間の求めに呼応する形で誕生したのでしょう、古今東西の書物には数多のサクセスストーリーが存在し、とりわけ「創作」を旨とする小説ジャンルでは現代においても量産されています。
サクセスストーリーを読むと、その達成や逆転のドラマに、読者はワクワク胸を躍らせたり溜飲を下げたりします。それはなぜかといえば、誰もが成功譚のカタルシスによる生理的享楽をDNAに刻み込まれているのと同時に、根本的に「まだ成功していない自分」を重ねて読むところがあるからではないでしょうか。身も蓋もない言い方をすれば、読者自身が己の夢なり目的なりを成し得ていないからこそ、現実ではなかなか得られないその快感を求め、代理でそれを成してくれる(成功譚である以上それが必ず保証されている)作中のヒーローに自己を投影し、最終的には成功を実現するまでの心の変遷を、今度は逆に自分自身の内部に映写させ満足感を享受する──という心理があるのではないでしょうか。だからたとえ物語がまったくの架空で、いささか現実離れした展開であったとしても、そんなことはかまいやしません。と、少々イヤらしい言い方をしましたが、こうした「代理人」を使った精神の整え方は、おそらくは人間だけに許されるとても高度で健全な自己保全の策なのではないでしょうか。
一般にサクセスストーリーというと、ビジネスや芸能・芸術の世界を舞台に、主人公の好ましい成長が描かれたり、チャンスをモノにした飛躍や大逆転の展開であったり、いかにも娯楽小説然とした派手なイメージがまず浮かびます。苦難や障害が描かれるにしても、それらは必ず乗り越えられるのであり、いつ果てるともしれない下積みの“現実”は往々にして省略されがちです。もちろん、完全にエンタメに振り切った娯楽小説であれば、ドラマティックな展開こそが一番の見せ場ですから、痛快であればあるほど世の人気も増すでしょう。読み手に楽しい架空の読書の時間を提供し、生きる元気さえ与えてくれる小説の存在は、お笑いと同じくらい世に欠かせないものであることは間違いありません。
ただ、後世にも残るような質の高い「よい小説」を書く、そんな作品を著す作家になるのだ!──と志を高く掲げるのだとすれば、ああ胸がスカッとしたチャンチャン……と済ませておくばかりにもいきません。作家を志す者であれば、誰だって自分の作品を「消費財」のように見られるのは淋しいものです。さあでは、どのようなサクセスストーリーを書くか、書くべきか、ということをいっしょに考えてみようではありませんか。
成功、あるいはそこまでいかずとも、ひとつのプロジェクトを成し遂げたと満足できる仕事の前には、報われない日々や不断の努力がきっとあるはず。その一見地味な“リアル”にこそ目を向け、咀嚼し、よく味わい消化してから、創作に活かしてくことが大切です。実際、現実世界での重みのある成功とは、目立たぬ努力、失敗の連続、自分自身でさえ意味があるかないかもわからない真空状態のなかで、報いのない時間を積み重ねた結果としてようやく手にする、ほろ苦くも甘い果実です。つまり書くべき真の人生のドラマも、成功に辿り着くまでのそうした“名もなき日々”にこそ潜んでいるわけです。小説家を志す者であれば、そんな人生のリアルなドラマにもアンテナを張り巡らせておいて損はありません。
──と、そんなことを考えるときに、一冊のおもしろい本があります。赤瀬川隼やねじめ正一など、主に文筆業に携わる著名人69人が「夢を抱いて苦闘していた日々」について語った『無名時代の私』(文春文庫)というオムニバスです。なかには、生活破綻、自己破綻とすら見えるような壮絶な過去が振り返られていますが、ではなぜ彼らはそのような日々を抜け出して成功を手にすることができたのか、おおいに興味が湧きませんか? それを単に、夢を諦めなかったから、努力は必ず報われることの証、といったレッツ!ポジティブ思考で終わらせてはなりません。だって、もうみんな知っているはずなのです。諦めなければ夢は叶うというものではないし、実を結ばない努力だってたくさんあるということを。じゃあ運? 確かにそれはあるのでしょう。でも、そういうシンプルな話ではないというところに着目しておきたいのです。
赤瀬川隼は延べ28年間のサラリーマン生活で得た退職金も失業保険も食い潰し、ねじめ正一は処女詩集『ふ』出版後に行き詰まりいまさら詩の教室に通いました。辺見じゅんは処女小説を刊行したのちに夫と別れ、暖房さえないアパートにふたりの娘と爪に火を灯して暮らしました。内田春菊は公園や神社に寝泊まりする文字どおりのどん底生活を送っています。彼らはみな、まずは生活を立て直そう、という行動に出ることはなくむしろ、一般の生活水準から見ても厳しく貧しい環境にあえて身を投じていったようにも見えます。それはなぜか? 成功をがむしゃらに信じる気持ちがあったから、というキレイゴトとは少し違う気がします。上述の4人とは別の筆者による言葉ですが、本書のところどころに、その答えを示唆するような言説が認められます。
それまで自分がやってきたことはすべて小説を書く作業の役に立つようだった。日本語を書く能力や、いろいろな小説を読んできたということ、世間に対する少し斜めの姿勢、それに昔々理科の勉強をかじって敗退したことまでがうまい具合に手を差しのべてくれる。(池澤夏樹)
私は青春の自己形成期にあったが、その自己形成をする場自体が敗戦によって崩壊し、価値体系も大きく揺らいでいて、その価値の一つ一つを自分の手で確かめてゆくという作業が必要だった。(辻邦生)
彼らにはまず、小説を書く、作家として立つ、という意志が、ただ夢を追う、諦めないという根性以前に、揺るぎないものとしてあったようです。その意志とは、願いを叶えるための鋼の精神の類ではなく、確信犯がもつ思想「自分が正しい」というのにも近い、本人だけにとってはごく自然な発想から生まれた意志。なので揺らぐも揺らがないもないのです。またその意志は、もう最初っから“そこ”にあるものなわけですから、放浪や下積みに至る前のごく初期に、ひょっとするとときに本人にもはっきりと自覚のないまま、固く決定づけられたものであったのかもしれません。そういうこともあり、ふつうであれば苦しく不安な放浪も野宿も肉体労働に明け暮れる日々も、雨や風など天候と同じように、自身の意志とは関係のない単なる途上の出来事であって、ゆえにお先真っ暗などん詰まりなどではないのです。彼らが出口として見据えていたものが、成功する姿であったのか、書きたい作品であったのか、あるいは明確な形はなくとも見つけられると確信していた“何か”であったのか、それはわかりません。もしかすると、その苦難な道のりさえ成り行きであったかもしれません。けれど、たとえ一般的な成功とは異なる形であっても、本人だけには見える出口はあり、彼らにはそれがずっと見えていた──そんな気がするのです。
痛快無比のサクセスストーリーは確かにおもしろい。ただ、前述のとおり「成功」と呼ばれるものには当然いろいろな形があります。それは傍目にはごく地味なものであるかもしれない、どこが成功? と首を捻るものであるかもしれない。けれども必ず出口はあると信じていた末に抜け出して得た成功は、当人に無上の感慨をもたらしてくれることでしょう。そしてようやく立った未知の地平のその先に、新たな道が見えてくる──だって人生は、物語のエンドマークでめでたしめでたしと幕を下ろすわけではなく、その先へと否応なくつづいていくのですから。たとえ出口を抜け出しても、無名から有名になったとしても、“リアル”なサクセスストーリーにピリオドは打たれないのです。
『無名時代の私』に登場する人たちの生き方は、あるいは規格外れであるかもしれません。ですがだからこそ、啓発も、力強いメッセージも、生きるためのヒントも、真実性をもって受け止めることができます。作家になりたい者にとっては、まさしく成功物語を書くヒントが満載される一冊なのではないでしょうか。機会あれば、ぜひご一読あれ。ネット書店では中古が入手できそうです(2024年9月現在)。
※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。
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