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人はその気になれば誰でも一作は小説を書くことができる──といわれます。そう、すなわち「自伝小説」、自分自身の物語ですね。ただそうはいっても、自分自身の人生や経験を材料に、「日記」ではなく「小説」を仕立てるという作業は、間違っても安易に取り組んでよいものではありません。波乱万丈の人生や一風変わった経験であっても、うかうかと書き連ねるばかりでは、単なる年譜や記録に終わってしまいかねません。長大な執筆時間を費やしても、当初思い描いていたイメージとはかけ離れた作文がひとつできてしまうだけなのです。自分の物語を素材に小説として構築していく確かな思考と手法が重要であることは、小説を書きたいと作家を志す方であればよくご存じのことと思います。
では、誰もが材料としてもっている「自分の物語」を小説として書くにあたって、「確かな思考」をどこへ向けるべきか。それは当然、主人公としての“自分の生き方”になるでしょう。なんとなく書きはじめると、エピソードトークよろしく出来事を軸に物語を紡いでしまうのですが、それはエッセイであって自伝小説ではありません。自伝小説である限り読者は、「あなたという人」の生き方にこそ心を寄せて物語を読み進めるのです。もとより自伝小説においては、基本的なストーリーや設定は決まっているわけです。それを単につらつらと書き連ねて“記録”に終わらせないためには、自分自身の生の軌跡を冷徹に見据えたうえで、何らかの答え、あるいは目的を導き出しておく必要があります。その答えを見つける考え方としては、人生とは何ぞや? という「生きる意味」への問いかけが自然と浮かび上がってきます。つまり、自伝小説を書くためのひとつの“キモ”として、生きる意味をどう探すか、どのように定義づけるかということが、執筆の道のりに関わってくるのです。生きる意味? はい、難しいですよね。それがわかっていれば、小説なんて書こうと思い立つこともないのかもしれません。それを探すために、自分自身を主人公に据え小説を執筆するケースだって少なくなく、小説的な複雑さやなおも答えの見えない陰翳を残す名作も多々あります。ただですね、それらを参考書とするとややこしいことになります。多くの場合、自己陶酔、自己憐憫多めの一作に堕してしまうからです。
成長途上の青少年も、人生にもがき迷いつづける大人も、ああ俺って何のためにこんなことしてるんだよと、なかば投げやり気分で「生きる意味」について考えることがあるでしょう。つまりそれは、生きている限り数知れず浮かび上がってくる問いかけです。しかしだからといって、自伝小説を書くという段では、これを疑問のまま放置するわけにはいきません。物語としてピリオドを打ち成り立たせるには、執筆の時点で“答え”を見つけておく必要があります。その心構えはいうなれば、“半生の清算”です。そう半分、半分でいいから自分の歩みを自分なりに消化して、その「意味」を結論づけておくことが必要なのです。
では、いかにして“半生の清算”に臨むか──?
今回、これを考えるためのテキストとして採り上げたいのは、以前の回(モデル小説の最高峰、サマセット・モーム『月と六ペンス』)でちらりと予告しましたが、サマセット・モームの自伝的小説『人間の絆』です。
いったい人生とは、なんのためにあるのだ? フィリップは、絶望にも似た気持で、自問してみた。(中略)青春の美しい希望の数々に報いられるものは、ただかくも苦い幻滅、それだけなのだ。それにしても、苦痛と病いと不幸の重錘が、あまりにも重すぎる。いったい、どういうことなのだ? フィリップは、彼自身の一生を振り返ってみた。人生へ乗り出した頃の輝かしい希望、彼の肉体が強いたさまざまの制限、友達のない孤独、彼の青春を包んだ愛情の枯渇。彼にしてみれば、いつも常に、ただ最上と思えることだけをして来たつもりだ。しかも、このみじめな失敗振りは、どうだ!
日本において「自伝小説」というと一人称の私小説を思い浮かべがちですが、『人間の絆』は自身の運命を嘆き苦悩するフィリップという青年を主人公に据えた小説です。本作はモーム自身ともいえるそのフィリップが、生きる意味を探して彷徨する軌跡を追っていきます。この軌跡に小説としての思索を重ねていくにあたって、モームが描いたのは、主人公の苦悩の大元となっている三つのモチーフ「身体的なハンディ」「孤独」「恋愛」でした。フィリップには片足に障害があり(モーム自身の発話障害・吃音を置き換えたもの)、劣等感に絶えず苛まれています。さらに主人公は、10歳で両親と死別し叔父(作中では伯父)との不仲・対立に悩んだモームの孤独を背負っています。そして、これは推測の域を出ませんが、物語での、心根が卑しく取り立てて肉体的な魅力があるわけでもない女にどうしようもなく惹かれ翻弄される理不尽な恋も、恐らくは作家の性的指向や実体験が反映されているのでしょう。こうした苦悩を引きずりながら自らの敗残者としてのみじめさを嘆くフィリップは、「生きる意味」の答えを探しつづけ、長い旅の末に気づきを得ます。
人は、生れ、苦しみ、そして死ぬ、と。人生の意味など、そんなものは、なにもない。そして人間の一生もまた、なんの役にも立たないのだ。彼が、生れて来ようと、来なかろうと、生きていようと、死んでしまおうと、そんなことは、一切なんの影響もない。生も無意味、死もまた無意味なのだ。
(同上)
フィリップのこの気づきと成長に導く存在としてモームが創出したのが、クロンショーという老詩人でした。人生の意味を問うフィリップ青年に対して、クロンショーは“答えはペルシャ絨毯にある”といいます。数々の経験を経たのちにフィリップはその老詩人の言葉を思い返し、そして、ペルシャ絨毯の精緻な美しい模様は模様でしかない、と悟るのです。
彼は、未来にばかり生きていて、かんじんの現在は、いつも、いつも、指の間から、こぼれ落ちていたのだった。彼の理想とは、なんだ? 彼は、無数の無意味な人生の事実から、できるだけ複雑な、できるだけ美しい意匠を、織り上げようという彼の願いを、反省してみた。だが、考えてみると、世にも単純な模様、つまり人が、生れ、働き、結婚し、子供を持ち、そして死んで行くというのも、また同様に、もっとも完璧な図柄なのではあるまいか? 幸福に身を委ねるということは、たしかにある意味で、敗北の承認かもしれぬ。だが、それは、多くの勝利よりも、はるかによい敗北なのだ。
(同上)
こうしてフィリップは、自分を苦しめた恋を乗り越えて、素直な性格をもち堅実な生活を送るひとりの女性に結婚を申し込みます。物語は、彼女がその申し出を受け入れるところで幕を閉じます。その先に想像されるのは、平凡であっても幸福な生活。それもまた、人生という絨毯のひとつの模様であるのでしょう。これが、作者モームが示すひとまずのところの“半生の清算”というわけです。このようにごく短い文章で結末まで紹介しまうと、『人間の絆』がいまいちカタルシスのない平板な物語のように感じられてしまいますが、実際の読後感はそんな味気ないものではありません。ぜひ図書館などで手にとってみてください。
時に苦悩に満ち、答えの出ない疑問を追いつづける人生。それは、「自分の物語」の普遍的な形でもあります。『人間の絆』の原題は『Of Human Bondage』、あえて直訳すれば「人間の束縛について」といった意味になります。サマセット・モームは本作について、自身の心に凝り固まっていた蟠りを浄化させるために書いたというふうに語っています。つまり『人間の絆』は、主人公が自分を縛り付けていた軛(くびき)から抜け出す姿を描く教養小説、自己形成小説なのです。
自伝小説を書くために求められるのは、半生を清算する心構えであると冒頭に述べました。多くの自伝小説がこの“半生の清算”の下地の上に描かれているものと思いますが、前述したように「書くこと」そのものを「清算」の行為として位置づけ、その上で成立している名作も多々あります。なので、どんな自伝小説でも“半生の清算”の手法を学べるというわけにはいかないでしょう。その点『人間の絆』は違います。事実、本作においてフィリップに予感される未来と、モーム自身のその後の破天荒な人生とはまったく異なるものです。モームは自伝小説を「作品」として成立せしめるために、自らの半生を下敷きに『人間の絆』を描きながらも、いったんはどこかで実人生とは区切って“半生の清算”をしたのです。
このように、作家の作品と実人生を並べてみるのもなかなか興味深いものがありますね。ただいえるのは、『人間の絆』には、「シニカル」という作品評のあるモームの作品群のなかにあって、ひときわ純真な心が現れているような、澄明で健康的な空気感が充ちているということ。だからこそ、“半生の清算”を描いていくための基本方程式を見出すことができるのでしょう。畢竟、『人間の絆』は、作家になりたいと思い立ち、まず手はじめに手近な題材「自分」をモチーフに自伝小説に臨もうとする人にとって、一読の価値ある名作といえるのです。
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