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「事実は小説よりも奇なり」なんて言葉を裏づけるように、世には数多のモデル小説が存在します。モデル小説とは、実在の人物をモチーフとした小説のことで、当ブログ『「プライバシー攻略」で物語が生きる!』でも書きましたが、日本だと三島由紀夫の『宴のあと』などが挙げられます。さて、このモデル小説を書くにあたって注意しなければならないことがあります。そう、ご存じのとおり権利問題です。これで世界のミシマも思い切り訴えられました。実社会をベースとした小説創作の場では、身近な人物をモデルとしてそのイメージや事実を借りて作品に仕立てることがままあります。その書き方によっては、当該者が特定されてプライバシー侵害や名誉棄損につながるような事態も起き得るわけで、そうした展開は作品そのものよりも世間の耳目を集めたりもするものですから断じて避けなければなりません。うっかり書いて裁判沙汰──などという展開は、訴える側も訴えられる側も、正直なところ無用に時間と体力を消費するだけです。
ただ、やっぱりなんといっても、名を成し傑出した人物のドラマティックな生涯といえば、それだけで小説のモチーフとしては魅力的なわけで、こうした方面のモデル小説がさまざまに存在するのも頷けます。小説を書きたい、作家になりたいあなたにしても、目の前にそうした人物が現れたとすれば、おのずと水が高きから低きに流れるように、その人をモデルに小説執筆に着手してしまうことでしょう。その姿勢は間違ってなんかいません。むしろ正しいくらい。小説家とはそうした生き物です。というわけで、書き手たるものいつなんどきモデル小説に挑む日が来るかしれませんから、今回はそれに備え、もしかすると世界で一番読まれたかもしれない、イギリスの小説家サマセット・モームの『月と六ペンス』をご紹介しましょう。
サマセット・モームという作家は、どうにも一風変わっています。輝かしい名声のもち主に違いありませんが、それでいて「巨匠」「文豪」などと呼ぶのは憚られます。無論その名に値しないというのではなく、重々しい肩書きなぞ不要とばかりにあっさり背を向ける軽やかな雰囲気をモーム自身がまとっているのです。一般的に作家とは、主題に向き合い深く苦悩しながら執筆するようなイメージを抱きがちですが、モームにはそんなイメージをみずから蹴散らすようなところがあります。モームといえば自らのセレクトによる「世界十大小説」が有名ですが、これにしても権威づけなど考えず、独断と偏見を隠しもせず、おおいに楽しみながら古典作品10作を取りあげ解説するという役目を務めたご様子。よく旅をする人で、シンガポールのラッフルズホテルに“東洋の真珠”という賛辞を贈り、世界に冠たるホテルとしてその名を知らしめたモーム。そもそも投宿の目的が、MI6(英国秘密情報部)の一員としての諜報活動──だったという話もあるのですから、まさしくジェームズ・ボンドを地で行く奇才です。そんなモームですから、『月と六ペンス』がとおり一遍ではないモデル小説であるのも当然といえば当然でしょう。
「おい、おれが女のためにパリくんだりまで逃げてくると思うか」
「奥様を捨てたのは、ほかの女のためではないと……?」
「当たり前だ」
「あなたの名誉にかけて?」
「ああ、おれの名誉にかけて」
「では、いったいなぜ奥様を捨てたんです」
「絵を描きたくてな」
「あなたはもう……40歳だ」
「だからさ、やるならいましかないだろうが」
(サマセット・モーム著/金原瑞人訳『月と六ペンス』/新潮社/2014年)
『月と六ペンス』の主人公のモデルは画家のポール・ゴーギャンです。株式仲買人として成功した経歴をもち、絵に取り憑かれ妻子を捨てて画業の道を選んだゴーギャン。南国の島を愛し、奔放に暮らし、その島で没したゴーギャン。生前は多くの画家たちの例に漏れず不遇に終わりましたが、死後はその作品が当時の最高額で売却されるなど、いまでは誰もが知る印象派巨人のひとりです。サマセット・モームはこのゴーギャンをモデルに、『月と六ペンス』を描きました。
主人公と呼べる作中の画家には、チャールズ・ストリックランドという名が与えられています。物語は、モーム自身を思わせる作家の「わたし」が、出奔した元株式仲買人である画家をその死までを追っていく形で綴られます。モームは、多くのモデル小説に見られるように、モデルの生涯や精神的・思想的な本質性を掘り下げるような描き方には目もくれませんでした。絵の解釈もなければ、画家の内面への理解もなく、ただ呆れ顔の傍観者の目をとおして、絵のために勝手三昧してまったく悔いるところのない画家の像を浮かび上がらせていきます。それはいうなれば、ストリックランド──ゴーギャンの非人間的な側面でありますが、「わたし」はそれすら断罪するわけでもなく、ただとおり過ぎていくだけです。
けれど、『月と六ペンス』に空虚な寒々しい雰囲気はありません。むしろ、南国の暖かく湿った空気感がより濃く残る印象です。それはストリックランドの死後、作家の「わたし」が南の島を訪れ、画家が現地の女性に愛されたことを知る場面に象徴的に表れているように思います。現地女性のストリックランドへの愛を知って、そのことに感じ入りながら、いよいよ画家を理解できずに島を去っていく「わたし」。しかしそこに残るのは、「わたし」の感慨でもなければ作家の残像でもなく、ただ南の島の植物や空気の匂い──
人はなりたい姿になれるわけではなく、なるべき姿になるのだ。
(同上)
この箴言のごとき一文、聞き覚えのある人も少なくないのではないでしょうか。知る人ぞ知るこの言葉の出どころは、実は『月と六ペンス』でした。モームは、ゴーギャンの生涯をモティーフにした『月と六ペンス』において、ストリックランドがいかにして狂気と情熱の画家に変貌していったかではなく、「なるべき姿」となった画家の像を傍観者の視線のさまざまな角度から照射した、ということがいえるでしょう。それはそのまま、人生や人間の本質をしかつめらしく思索するのではなく、達観し皮肉るようなモームのあり方に通じるように思います。モデル小説『月と六ペンス』の比類ないユニークさは、まさに、サマセット・モームという小説家のユニークさの所産なのです。
『月と六ペンス』はモデル小説の最高峰であるのか、などという議論は、モームが生きていたら、それこそフンと鼻を鳴らして一笑に付されてしまいそうです。しかし、いかにしてモデル小説を書くかは、モデルといかに向き合うかの姿勢に集約されます。作家になりたい、いつかモデル小説を書くかもしれない皆さんにとって、『月と六ペンス』がおおいに参考になる一冊であるのは間違いないでしょう。
小説の芯と資質とは、ひょっとすると、作家として「なるべき姿」を求める姿勢から形づくられていくのかもしれません。明快と見えて計り知れない複雑さをもつ作家、サマセット・モーム。彼のもうひとつの代表作といえる『人間の絆』も、いつか当ブログでご紹介したいものです。
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