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絵本の世界でおじさんが笑う──「ピュア」の本質

2023年12月27日 【絵本・童話を書く】

「ピュア」の定義からまず考え直してみよう

童話や絵本のつくり手が、読者である子どもに期待するものは何でしょう? すごく大雑把にいえば、それは「子どもの感動」。いまだ「感動」という言葉の意味さえ知らない子どもの心が感じ弾けて現れる、純粋な驚きや喜びなのではないでしょうか。ですから、絵本作家・童話作家になりたいと思うならば、このピュアな感動を呼び覚ます物語を創作しなくてはなりません。純真な心に触れて、キラキラとした笑顔がこぼれ、ワクワクと胸を躍らせる良質な物語こそが、絵本作家・童話作家の目指すべきゴールなのです。さてでは、それはどのような物語であるのか。端的にいえば、ピュアな心を宿す物語です。ピュアな心が投影された絵本や童話が、子どもに潜在するピュアな感動を喚起します。だって、そうでしょう? いくら楽しげでも、派手な仕掛けがあっても、その幕間にあからさまな虚偽や大人都合の作為が、ドロドロの濁りや淀みとして露見してしまうようであれば、真にピュアな感動など引き出せるはずはありませんからね。むしろ鼻白んだり、そこはかとない恐怖が漂いはじめてしまいます。

とはいえいったい「ピュア」って何???──ですよね。何を書けばいいのか。純真な子どもや動物を登場させればいいんじゃない? と短絡的に思われたなら、物語の着想に関し、もっともっと深く真剣に考えなければなりません。無論、動物や子どもは純真な存在であるでしょう。それらを主役に据えても、何ら悪いことはありません。ですが、安易な手立てにも子どもたちはかなり厳しい目を向けるものです。なんたって彼らは思考以上に感性を頼りに物事を評価します。鋭敏な感性のセンサーがネガティブなアラートを発しようものなら、またたく間に作品を閉じてしまいます。ですから「ピュアな心をいかに描くか」という課題に取り組むなら、とおりいっぺんの発想から抜け出す勇気が必要なのです。有り体にいえば、ページを繰るごとに「いい意味で裏切る」フレッシュさがほしいのです。

主人公としての「おじさん」が光るワケ

絵本作家でエッセイストの佐野洋子は、絵本や童話らしい一見王道的なストーリーに、一風変わった発想をもち込んで、ドラマティックな情感や深い味わいを生みだす名手です。たとえば、代表作のひとつ『100万回生きたねこ』では、無頼の猫に不思議な運命を背負わせて壮大なスケールの物語を描きました。そしていまから50年近くも前、1974年に発表した作品では主人公に「おじさん」を起用しています。絵本の主人公におじさん……そこまで珍しい設定ではないですが、少なくともきのうきょう絵本を描きはじめた人が、おじさんを主役に立てることはまずないでしょう。コンテストや賞の応募作でもなかなかお目にかかりません。プロットが練りに練られ、第9稿ぐらいになってようやく“降りてくる”発想なのではないでしょうか。

おじさんは、とっても りっぱなかさを
もっていました。
くろくて ほそくて、
ぴかぴかひかった つえのようでした。

(佐野洋子『おじさんのかさ』/講談社/1992年)

(以下、ネタバレがあります。作品を未読の方はご注意ください。)
『おじさんのかさ』は、とある紳士風のおじさんと、このおじさんがとても大切にしている傘のお話です。どれほど大切にしているかといえば、どこに行くにも携行し、そのくせ雨が降っても使わないというくらい、大切にしているのです。おじさんは、小雨であれば傘をささずに歩きます。そこそこ降ってきたら雨宿りします。なかなか雨がやまないようなら、見知らぬ誰かの傘に入れてもらいます。もっとひどい雨が降ったなら家を出ず、窓から傘を吹き飛ばされそうになる人を見て、ああ出かけないでよかったと安堵します。ところがある日のこと。いつものようにおじさんが傘を手にして公園にいると雨が降り出し、小さな男の子がおじさん傘に入れてよォ……と寄ってきます。おじさんはあさっての方向に顔を向け聴こえないふりをします。こうなってくると、一見紳士風のおじさんですが、もはや紳士であるのかさえ怪しくなってきます。男の子はといえば、そこで知り合いの小さな女の子に出会って、無事傘に入れてもらい帰っていきます。そして、おじさんの耳にふたりの楽しそうな歌声が聴こえてきます。

あめが ふったら ポンポロロン
あめが ふったら ピッチャンチャン

(同上)

この歌声がふとおじさんの心に触れました。雨が降ったらポンポロロン、ピッチャンチャンと音がするって本当かなぁと思ったおじさんは、あれだけ大切にしてきた傘をついに開いてしまいます。そうして、雨が傘を鳴らす「ポンポロロン」、濡れた道を靴が打つ「ピッチャンチャン」という音を耳にして、おじさんは笑顔になり、楽しげに傘をさしたまま家路に就くのです。──さあ、どうでしょう。一時は紳士であるか危ぶまれたおじさんですが、実はその心にはとてもピュアなものをもっていたことが伝わってきませんか? 男の子と女の子に触発されるようなピュアな好奇心を、紳士風の相貌の裏側に携えていたのです。もしかしたら自分でも気づかぬままに、心の奥底で眠らせていたのかもしれません。

『おじさんのかさ』が描く「ピュア」の要諦

絵本作家・童話作家になりたいと思う人が、この「ピュア」の基本を堂々と押さえた『おじさんのかさ』に学ぶべきところは3つあります。ひとつはもちろん、おじさんを主人公に据えるという意外性のあるキャスティング。もうひとつは、“雨降り”というシチュエーションを用いたこと。「あめあめ ふれふれ かあさんが…」という北原白秋作詞の童謡があるように、雨の降る風景には郷愁を誘うものがあります。郷愁に行き着く前段の心の変遷としては、内省というのがあるかもしれません。雨降りの景色とは基本的におもしろくもなんともないですから、おのずと人は目の前の景色から離れ、過去を思い起こしたり、自分の内面にあるモノやコトに想いを馳せる──と。傘を使い惜しんだおじさんの心の純真を呼び覚ましたのも、楽しげな子どもと自身の対比、そして雨を疎ましくなど思いもしなかった子ども時代の原風景に心が帰っていくなかで、心を動かされる“何か”を掴んだからなのでしょう。そして、もうひとつ──

「あら かさを さしたんですか。
 あめが ふっているのに。」

(同上)

これは、傘をさして帰ってきたおじさんを迎えた、おじさんの奥さんのセリフです。一見嫌味かな? とも思えますが、そんな意味で奥さんは言ったのではありません。おじさんが大事な傘をささずにもち歩くことをよく知っている奥さんもまた、その価値観を心底理解しており、純粋に、ただ純粋に驚いてそう言ったのです。そうとわかれば、このくだりからは長い時間によって築かれてきた夫婦の絆が読みとれます。その絆が、大仰にではなく、ごく何気ない日常のひとこまとして表現され、いかにもほのぼのと温かな空気が醸成されています。おじさんと奥さんの生活風景から現れたそれは、一定の経験を経た大人であればこそ感じることのできる、人間の「素」の営みのなかで培われていくものでしょう。『おじさんのかさ』には、そうした深遠な味わいが優しくさりげなくブレンドされていて、それゆえに、大人が読んでもしみじみと心に響く滋味深い物語となっているのです。

ラストのもうひと彫りが勝機を生む?

さらに、佐野洋子はここにもう1シーンを加えています。家に帰ってお茶や煙草でくつろいだおじさんは、ときおり玄関に立てかけた傘を見に行き、濡れた傘もいいもんだな──とひとり悦に入ります。このラストの、手の込んだもうひと彫りには唸るほかありません。ちょっと変わったおじさんの個性と、心にもちつづけていた「ピュア」が、仲よく結びつきマリアージュしたひとこまといえるのではないでしょうか。

絵本を描く、童話を書くための心得として、これまで当ブログでもさまざまな題材を取り上げてきたとおり、子ども向けのジャンルであるからといって単純に目線を低くして考えることはご法度です。子どもたちは自分たちの地点までニコニコと迎えに来てくれるような態度を絵本に求めてはいませんし、大人の掌の上で遊ばされるなんて気はさらさらありません。手を引っ張り、まだ見たことのない景色へといざなってくれる姿勢、それを欲しているのです。そしてそれを繰り返し読むことで、その驚きはそれぞれの子どものなかでお約束の展開になるのです。安心する展開や「ベタ」な質感は、そうなってからで充分なのです。子どもに読ませたい作品だからこそ、彼らがまだ知らぬ大人としての視点や着想が必要です。そのためにも「ピュア」の本質を押さえるということが大切な課題となってくるのです。この点を考えて創作に勤しむのとそうでないのとでは、5年後10年後に大きな差を生むことでしょう。純粋無垢な作品をつくるにあたり、作者の感覚任せではどうにも足らない作品に、作為ありありではそれが露呈した嫌味な作品に堕してしまいます。必要なのは本稿に書いたような事柄に向けた「自覚的な姿勢」なのではないでしょうか。それを携え創作に取り組む経験は、きっと素晴らしい絵本・童話を著す大きなステップとなるものと信じます。

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