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本稿では、この一連のブログとしては珍しく時事的なことを書きます。2024年現在、一抹の緊張感をもってふと思うのは、私たちは世界の出来事に無関心ではないか……ということ。もっといえば、無知でさえあるのではないか、ということ。もちろん皆が皆、そうであるとは思いませんが、緊張感を伴ってふとよぎるこの思念は、ある面での真実を指しているような気がしてならないのです。さまざまな問題はあるにせよ、おおむね恵まれた国「日本」。地球上の一員として、そこにたまたま生を享けた人間として、この無関心・無知は褒められるべきことではないでしょう。恵まれた境遇を享受していることに加え、その環境下で「作家になりたい」と感性を研ぎ澄ませるべき身であるならなおさらです。作家を志した瞬間から、否その衝動の根に、社会への関心やそれへの憂いが求められるのは、たとえエンターテインメント作品だとしても、作品に接する読者のひとり残らず全員が、読書体験をするその瞬間においては、それぞれが置かれた世界で現代社会と密接につながる「一個人」だからです。ゆえに、社会性抜きにして作家活動は成立しないのです。
さて、一編の物語がきっかけで蒙が啓かれる、ということがときにあります。つまり、世界に対する“無関心”に風穴を開けるような物語もあるわけです。20年ほど前にベストセラーとして話題となった、一冊の小説がここにあります。タイトルに聞き覚えのある方も、既読の方も少なくないと思います。その本の名は『ペンギンの憂鬱』。ロシア出身のロシア語作家であり、同時に3歳のときにウクライナのキーウに移住したウクライナの小説家、アレクサンドル・クルコフの作品です。彼自身はいまなお、激しい紛争下にあるこの国のこの街で暮らしています(2023年当時)。
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻については、いまでは日本のほぼ100パーセントの人が知るようになりました。知らないのはおそらく言語的に未発達の乳児だけでしょう。それだけ多くの日本人がメディアを通して、この侵略戦争を目の当たりにしてきました。そして、長引く戦禍に関心を寄せ、現地で苦しむ人々や悲惨で理不尽な状況に厚い同情を寄せつづけています。体制を糾弾する側というより糾弾される側の多い昨今の「メディア」という存在が、本来の意義や機能を発揮して、遠い地の実情を広く遍く知らしめ人々の関心を集めた好事例でもあると思います。でも逆にいえば、私たちはニュースや報道がなければ、関心も同情も寄せることはなく、それどころか大多数の人は、ウクライナの人々が突きつけられている現実について何ひとつ知らないまま過ごしていたことでしょう。確かにそれは当たり前のこと。けれどもしあたなが作家を目指す人であるならば、それが世の常、現代社会のシステムなのだといって、彼の地の行く末に昏いままでいる自分を許せるでしょうか?
およそ30年前にアレクサンドル・クルコフが著した『ペンギンの憂鬱』は、誤解を恐れずごく簡易なカテゴライズをしたとすれば「ファンタジー」といえなくもありません。その物語世界は、奇妙な成り行きを見せ、不条理に満ちています。そして物語の“はしっこ”に、しかし常に存在感を示す憂鬱症のペンギンがいます。この憂鬱症のペンギンは何を意味するか、平穏に暮らせる南極への移住は何のメタファーなのか。物語の舞台であり作家の祖国であるウクライナが、30年前の当時にどんな状況であったかを知ったうえで本作を読めば、風刺的なファンタジー世界に張り巡らされた不条理の意味も、謎も、読み解くことができ、読書体験はいっそう重要なものとして刻まれます。本を読むということは、無論、ただ暇つぶしにページを繰ったってよいわけですが、たとえユーモラスな姿を見せていてもそれに甘んぜず、姿勢を正して臨むべき作品もあるのだと、まざまざと思い至ります。
この国も奇妙なら、ここの生活も奇妙だ。でも、なんでそうなのか理由を知りたいとも思わない。ただ生きのびたいと思うだけだ……。
『ペンギンの憂鬱』の主人公は売れない作家のヴィクトル。つぶれかかった動物園から引き取った憂鬱症のペンギン・ミーシャと暮らしています。ヴィクトルが書く小説の雲行きはさっぱりでしたが、あるとき、まだ存命している人たちの追悼文を書くという仕事にありつきます。奇妙な仕事でしたが、取り組んでみると意外にも興味深く、報酬も満足のいくものでした。ところが、やがて前もって追悼記事を書いた人々が次々と死んでいき、ヴィクトルとミーシャに関わる人さえも殺されて……
『ペンギンの憂鬱』は、憂鬱症のペンギンと暮らすという設定の時点で、物語性に富んだファンタジーとなっています。生きることに不器用な、どちらかというとダメ男の主人公の周辺で、次々と奇妙な出来事が起き、ついには南極まで行こうとする展開は読み手の興味を逸らさせません。ときに笑い、ときにペンギンのミーシャにほだされ、想像力もずいぶんと刺激された気分になります。……が、そうしてそれなりの満足を得て、ああなかなかおもしろい本だった──と終えてしまっては、はなはだもったいない読書体験になってしまいます。
たしかに、気のふさぐこともあれば、自分が何かよからぬことに関与しているのではないかと思うこともときにはあったが、今ではそんなふうに悩むことはめっきり減って、自分の暮らしが不安のない気楽なものに思える。それにしても、よからぬ世界のよからぬこととは何なのだろう。自分の知らない巨大悪のごく一部ではないのか。その悪はすぐそば、すぐ近くに存在しているが、彼個人やその小さな世界を侵すことはない。たとえ何かよからぬことに関わっているとしても、それをまったく与り知らないのであれば、それこそ彼の世界がゆるぎなく落ちついている保証なのではないか。
(同上)
憂鬱症で病気もちだけれど愛らしいペンギン、奇妙で不条理でユーモラスな展開──そんな物語には、不安に慄き、いつしかそれにも慣らされてしまう世界の内側から真実を突く、声ならぬ声が秘められているのです。
作品の書かれた背景に、よりいっそう、じっと目を凝らして読むべき小説が世の中にはあります。『ペンギンの憂鬱』でいえば、かつてソビエト連邦であった国の平和のベールがごく頼りないものであると想像することは、さほど難しくありません。しかしそれが、実際どれほど頼りないベールであるか、いかに小さな幾つもの火種を孕んだまま営まれる社会であるかを、一見奇妙でユーモラスな『ペンギンの憂鬱』は、風刺というペンの筆筋によって暗示しています。小説のなかに、表立って書かれていない「重大な因子」は、しばしば、戦争や数々の不幸の芽がどこからどのように顔を出すものであるかを教えてくれます。そしてそのような読書体験は、平和や幸福への真実の願いを託した小説を書くうえで書き手の“よすが”ともなるはずです。
作家になりたいからといって、誰もが不条理小説を書こうと思うわけではないでしょう。けれど一方で、社会も人生も、実世界が不条理に満ちているということは、多くの人が真実として知っています。アンドレイ・クルコフの『ペンギンの憂鬱』。現実の不条理を映した滑稽なファンタジーだったよ──というツルッとした簡素な感想も見当外れではありませんが、この物語の、一見ユーモラスな風景の奥底に、ちらちらとまたたく不吉な色と、あしたをも知れぬ未来への不安を読みとったなら、その読書体験は小説家を志す者の創作道において、かけがえなく、重大で豊かな何かをクルコフに授けられたということなのでしょう。そんなふうに読書というのは、読み方によって、小説を書くときの大きな糧となるのです。
なお、2023年10月、アンドレイ・クルコフ著『侵略日記』(発行:ホーム社/発売:集英社)が刊行されました。そこにはのほほんとした気配など微塵もなく、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻の生々しい戦況の経緯が綴られています。
※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。
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