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西行――その美しい孤独と桜

2019年03月15日 【詩を書く】

桜の歌人が垣間見せるのは、「歌」の極致

地球温暖化の影響で、私たち日本の桜も年々開花時期が早まっている様子です。それを逆手にとって、酒を飲むキッカケが向こうから歩いてきたと喜び勇んで、桜の木の下、花を仰ぎ見もせず、飲めや歌えやと騒いではいけません。純粋な気もちに返り、素直に桜を愛でましょう、桜を詠いましょう。高貴で、妖艶で、潔い桜は、風流こそが似つかわしい花なのだから。それを味わった上で、しっとりと盃を傾けるぐらいの風情がもの書きにはほしいところ。倣うべきは西行。桜の歌の手ほどきを仰ぐのにふさわしい歌人は、西行しかいません。

『新古今和歌集』に名を連ねる歌人たちのなかでひときわ異彩を放つ、西行――平安時代末期、裕福な武家に生まれ、「北面の武士」と呼ばれたエリート武官の地位を擲って出家し周囲を驚かせた男は、漂泊の旅の日々に歌を詠みました。500年後の松尾芭蕉がそうであったように、西行の歌と生き方に魅了され影響される者はあとを絶ちません。小林秀雄も白洲正子もそのひとりです。後世の人間ばかりではありません。同時代の歌人たちにあっても、西行は別格でした。もちろん歌人として一流でしたが、それだけではありません。桜を愛し「ねがはくは花のもとにて春しなむその如月の望月のころ」と、桜の盛りの日に死にたいと願った西行が、まったくその言のとおりに没したと知ったとき、彼のなかにある異質な気高さの証を見たかのように、同朋たちは感動に打ち震えたのでした。

人間の矛盾性・複雑性と創作の関係

ある歌人の歌により深く触れるためには、創作者の人となりをよく理解することが重要です。とはいうものの、西行を“これこれこうした人物である”とかっちり説明するのは容易ではありません。巷にゴロゴロいる十人並みの人間でさえ、その内には得体の知れない複雑さを抱えているというのに、西行は人並みとはほど遠く枠にはまらない人間なのです。というそんな西行ですが、さすが白州正子は端的に評しています。

出家はしても仏道に打ちこむわけではなく、稀代の数奇者であっても、浮気者ではない。強いかと思えば女のように涙もろく、孤独を愛しながら人恋しい思いに堪えかねているといったふうで、まったく矛盾だらけでつかみ所がないのである。
人間は多かれ少なかれ誰でもそういうパラドックスをしょいこんでいるものだが、大抵は苦しまぎれにいいかげんな所で妥協してしまう。だが、西行は一生そこから目を放たず、正直に、力強く、持って生まれた不徹底な人生を生きぬき、その苦しみを歌に詠んではばからなかった。

(白洲正子『西行』新潮社/1996年)

人間のもつ矛盾のままに、最大限にまで振り切れた人生を歩んだ西行。身ひとつで放浪し、山深い里に庵を結び、何ものにも執着しなかった彼が手放さなかったものは、孤独でした。孤独を愛したのか、それとも孤独を課したのか。おそらくは両方であり、それもまた人間の矛盾といえるのかもしれません。そして「桜」は、西行の「孤独」と密接な関わりを結ぶものであったのです。

花見ればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける

(西行『山家集』岩波書店/1928年/以下同)

桜を見ると、われ知らず胸に苦しさが湧く――桜は、西行がその孤独な心をもってして対峙する存在だったようです。西行が遺した2000首あまりのうち、桜の歌は230首あるといいます。花木で次に多い松と梅は、それぞれ20〜30首ほどだそうですから、これは圧倒的な比重差であり、西行と桜の関係は終生それほどに深かったのだといえましょう。西行は桜に何を見たのでしょう。絢爛と花開くも、わずかな期間で何にも惑わされず散り去っていく潔さでしょうか――。

世の儚さを嘆かず、歌を詠み詩を書くという境地

世の中を夢と見る見るはかなくもなほ驚かぬわが心かな

世は儚いもの。儚いことが当たり前、驚くには当たらない――と淡々と境地を詠う一首。西行の目には、世間が人の世の儚さに大騒ぎし過ぎであるように映っていたのかもしれません。そんな世の中が西行を孤高の生へと導いたことは、一面で間違いではないように思われます。そして、桜――。桜ならずとも、花の命は短い。なのに西行が、梅ではなく桜を熱狂的に愛したのは、ひょっとすると人間の矛盾性に関係があるのかもしれません。華やかで大胆で圧倒的であるのに、儚く束の間に命を終えてしまう桜。その散り際は、単に西行を驚かせるというより、むしろ歌人自身の心に共鳴し、その振幅を増して狂おしく騒がせたのではなかったでしょうか。

花に染む心のいかで残りけん捨て果ててきと思ふわが身に

これほどまでに桜に惹きつけられるのはなぜなのか、俗生への執着はすべて捨てたはずなのに――。桜は、この世への執着などとうに振り捨てたはずの西行の愛を呼び覚まし、懊悩を誘いました。そして西行は文字どおり、桜に取り憑かれたかのように、歌を詠みに詠みました。わけても、熱に浮かされたように桜に胸を騒がせる、臆面もない歌にいっそう西行らしさを感じます。

色そむる花の枝にもすすまれて梢まで咲くわが心かな

月見れば風に桜の枝なべて花かと告ぐる心地こそすれ

春風の花を散らすと見る夢はさめても胸のさわぐなりけり

西行は漂泊の生涯で身につけた孤独と達観を歌に詠みあげました。彼にとって「桜」は、単なる花鳥風月の枠に収まらず、多感と情熱を秘めた孤独な魂を生涯向き合わせた畢生の歌題であったのです。ゆったりと風流を楽しみ歌詠うのもいい。また、あなた自身に、生命の活力のすべてを懸けて対峙するような切実な対象があれば、それは歌人冥利につきるというものでしょう。まもなく西行の花の季節が再び巡ってきます。西行の歌を味わいながら桜を仰ぎ、詩作や歌作についてあらためて考えてみる、きっとよい機会になることでしょう。酒宴を開くのは、歌を吟じたそのあとです。

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