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世界文学史上に名を連ねる数々の巨匠・文豪たち。なかでも目を向けるべきは、やはり現代に直結する20世紀文学の世界でしょう。没後も燦然と輝く巨星として誰もが認めるジェイムス・ジョイスやマルセル・プルースト……。そのなかに、ひときわ異彩を放つ天才がひとり。主人公が虫に姿を変える『変身』のほか、未完作品をゴロゴロ遺したフランツ・カフカです。『変身』といくつかの短編が出版されているだけであった生前は、一部の職業作家たちが注目していたに過ぎなかったカフカですが、死後、遺稿が公刊されたことで世界的な「カフカ」ブームが起きました。しかしなぜカフカ?――そこには不思議なわけがあったのです。
「もう少し眠りつづけて、ばかばかしいことはみんな忘れてしまったら、どうだろう」と、考えたが、全然そうはいかなかった。というのは、彼は右下で眠る習慣だったが、この今の状態ではそういう姿勢を取ることはできない。いくら力をこめて右下になろうとしても、いつでも仰向けの姿勢にもどってしまうのだ。百回もそれを試み、両眼を閉じて自分のもぞもぞ動いているたくさんの脚を見ないでもすむようにしていたが、わき腹にこれまでまだ感じたことのないような軽い鈍痛を感じ始めたときに、やっとそんなことをやるのはやめた。
(フランツ・カフカ作・原田義人訳『変身』/『世界文学大系58カフカ』所収/筑摩書房/1960年)
カフカという作家には、名状しがたい存在感があるようです。人間が虫になるという着想は、後世さまざまな形で文学的モチーフとなりパロディ化もされました。タイトルからしてストレートな村上春樹の『海辺のカフカ』が、カフカへのオマージュとして書かれたのは村上本人の弁でもしっかり裏づけられています。「カフカ的」などという言いまわしだってあるくらいです。それが「ジョイス的」「トルストイ的」などといっても何のことやらわからないわけで、もはや“個性”を超えたカフカの“格別の異色性”に気づかされます。曲者なのはこの「カフカ的」の意。一般には「不条理」と理解されているようですが、それでは単純すぎるし幅広すぎる。本を書きたいと思う者なら、せっかくですから、この「不条理」をピンポイントで探って「カフカ的」の最高峰を目指したいところです。
カフカの名が俄然光彩を放ったのは、死後、長編の原稿が発表されたことがきっかけでした。そのほとんどが未完、何も起きない、何ごともはじまらない、なかにはそういう状況を延々描いた小説もありました。動きのない物語が文学界で下にも置かない扱いを受けるなんて、にわかには信じられません。それが純文学文芸誌の新人賞の審査を通るでしょうか? 玄人審査員のウケよくみごと賞を受賞したとして、一般の市場でも読者を獲得できるでしょうか? はなはだ疑問です。ですが、カフカはそれをやったのです。小説が何も伝えない、何も残さないという、カフカの手法が世に与えた衝撃はとてつもなく大きなものでした。遡って『変身』がより広く注目されたのはいわばその余波による再評価であり、そうした一連のブームを経て、カフカはたちまち影響力のある異色の天才作家の地位に駆け上がったのでした。
今やKは、城が澄んだ空気のなかで上のほうにはっきりと浮かび上がっているのを見た。あらゆるものの形をなぞりながらあたり一面に薄い層をつくって積っている雪のなかで、城はいっそうくっきりと浮かんでいた。ところで上の山のあたりは、この村のなかよりもずっと雪が少ないように見えた。ここの村のほうでは、きのう国道を歩いたときに劣らず、歩くのに骨が折れた。村では雪が小屋の窓までとどいていて、低い屋根の上にも重くのしかかっていたが、上の山のほうではすべてのものがのびのびと軽やかにそびえていた。少なくともここからはそう見えた。
(『城』/同上)
測量のために招かれた城。はっきりくっきり目には見えるのに、行けども行けども辿り着けない。そんな異常事態に主人公の測量技師は慌ても騒ぎもしない――。こうして何も起きぬまま500ページを超えた『城』は、「カフカ的」の真意に迫っていくに最適なテキストといえそうです。結局『城』は城に辿り着けずに未完となっているのですが、あるいはこのままで完成と見なすべきなのかもしれません。だって、城にはどうしたって辿り着けないのだから。結末のつけようなどないわけです。
カフカに未完作が多いのは当然、と指摘した者がいます。『伝奇集』で知られるアルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスです。彼はカフカ本人よりも前に、「カフカ的」と称されるべき先駆者がいたとして、いくつかのテキストを挙げています。そのなかのひとつが古代ギリシアの哲学者ゼノンのパラドクスでした。飛びつづけている矢は静止しているのと変わりはない、という議論です。つまり、延々城に辿り着かない物語は「運動のパラドクス」であり、それが作品の本質である限り、終わりようもないというのです。
カフカの不思議は『変身』にも見て取れます。主人公のグレゴール・ザムザを襲ったのは、ある朝突然巨大な虫に変身していたという世にも不条理な事態でしたが、カフカは不条理を読み解いたりはしません。グレゴールは事態を泣く泣く受け容れているし、家族はこれは困ったことになったナぐらいの調子でグレゴールの世話をし、ついに彼を見捨てたあとは、将来の希望について穏やかに話し合ったりしています。実際、作品の空気にはユーモアさえ滲みます。「不条理」が「筋道の立っていないこと」の意であるとすれば、世は不条理だらけ。それはすなわち“何ほどでもない”という話なのかもしれません。
「カフカ的」という言葉、ただ額面どおりに受け取って恣意的な不条理小説を書くより、カフカを先駆者とするような、さらなる「カフカ的」な世界を描いてみるほうがずっとおもしろいはず。何ごとも起きない『城』、冒頭からとんでもない事件が起きるがこれといった変化をもたらさない『変身』。「カフカ的」な事態は、現実からかけ離れているのかというと、決してそんなことはないのです。むしろ現実の社会は、よく書けている小説ほど予定調和的ではありません。しかしそれでいて、穏やかな日常にさりげなく椿事をブッ込んできたりもします。そうした世の中のリアルを描こうとしたとき、作家になりたい者が肝胆照らすにふさわしい文豪、それがフランツ・カフカなのです。
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