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小説を構成する要素――といって思い浮かぶのはいくつもあり、実際Googleで検索してみれば「小説の四つの要素」「小説に欠かせぬ3つの要素」「小説に必須の3つの要素」「小説を構成する二大要素」「物語を書くために必要な6つの要素」などとページタイトルが並び、ページに飛べばそれぞれに重要と思われる要素が縷々説かれています。それらを横断して読むと、結局何が正解かわからなくなるほどの違いがあるのですが、どの論者に訊いたとしても、小説において「主人公」の存在がすこぶる重要であることに異論はないはずです。
実験的な作品を除けば、基本的には主人公がおり、その周囲を流れる時間を描いたものを「小説」と呼んで差し支えないでしょうか。ゆえに主人公をいかに描くかについては、作者は痩せ細るほど熟考し、筆を進める際も手が震えるほど注意深く当たらねばなりません。が、ふと見渡すと、ヒーロー然と輝いていなければならないはずが、どうも心許ない主人公が少なくないようです。この場合の心許なさとは、強い弱いではありません。存在感の怪しさです。そんな小説のなかの存在感の怪しい主人公――を生み出してしまう原因はどこにあるのか。それを究明するキーワードは、「主体化」かもしれません。
「主体」とは、三省堂大辞林第三版によると「自覚や意志をもち、動作・作用を他に及ぼす存在としての人間」のこと。いいことずくめ、なかなか毅然として立派な態度ではないか、それこそ主人公に相応しいではないかと誰もが頷くと思います。主人公が意志的であって悪いわけがないじゃない!……と。
しかしながら、それは安易で危険な同意なのです。実社会でもまさしくそうなのですが、人が行動的とか意志的といわれるとき、実は、真の意味で主体的であるケースは稀なのです。たとえば、何ごとかに躊躇しうしろへ下がろうとする人を「自分の意志を貫くんだ!」などと声高に叱咤激励することがあります。励まされた当人もまた「うん、そうだね! がんばるゾ!」などと発奮し、その思いをバネにあたかも主体的であろうとします。しかし実際このとき、一見主体的に思えるこの人物の内部にあるものは、主体であるようでいてまったく違うのです。現代社会には、ああ無惨、このような表層的な主体化現象が魑魅魍魎のごとく顕現しています。まあ生き方は人それぞれですから、波間に漂う根なしの水草のように、主体を捨て去った生き様を批判する気は毛頭ありません。逆にそれを貫けば、一周まわって「主体的」と呼ぶこともできそうです。しかし、とりわけ物語世界のなかに生きる主人公が、他者に感化されて得た仮初の主体を、己の核のように信じ振る舞ってはならないのです。それはまさしく自己欺瞞、読者は鼻白んでしまいます。
そもそも、真に主体的であろうとするのは非常に難しいのです。この事実をしかと知る必要があります。主体的であるためには、大辞林によれば「自覚や意志をも」たなければならないわけですが、その前段として自覚や意志をもつ「根拠」が問題となってきます。その根拠とは、ある主義や思想への深い理解や考察、またそれに加え自身を客観視するスタンスです。それらを具えて初めて自覚や意志が芽生え、主体という大樹へと育っていくわけですが、物語の主人公のみならず、生身の人間にあってもこの事実を忘れ、借り物の言葉や安易な理由づけをもって、己が自覚や意志の根拠と見なしてしまうことが多いのです。これは、とても危険なことなのです。
実生活上のわかりやすい例としては、タレントが実践している健康法が根拠となって主体行動が現れるというケースなどはゴマンとあり、SNS上で展開されるインフルエンサー活用のコマーシャルはまさにこれに乗じた手法。それに踊らされるのが大衆というものなのかもしれませんが、少なくともこうした似非な主体行動につい邁進してしまう主人公に、人間的魅力や厚みを感じるかといえばそれはないでしょう。では、より大きな思想や主張、学問的成果などに従属した主体化であればいいのかというと、そうは甘くはありません。物語のなかでリーダーとして圧倒的な存在感を放っているかに見えた主人公が、実は信奉した啓蒙書に感銘し行動していただけでした――という話では、ヒーローやヒロインの概念、存在性が激しく揺らいでしまうことはおわかりになると思います。どちらかといえば、いよいよ状況が極まった際に、啓蒙書に従い行動していた自分の殻を突き破り、本当の自分自身の主体性を獲得する姿にこそ、人はヒロイックなカリスマ性を感じ、作品のダイナミズムの前にひれ伏すのです。
文学とは,燃えるような発現にいたるまで自己に近づいてゆく言語なのではなく,自己自身から最も遠く離れたところに位置する言語なのであり,こうした「自己の外」に出ることによって言語が自身の固有の存在を明らかにするとしても,この突然の光明が啓示するのは自己への沈潜であるよりは隔たりなのであり,記号の自己への回帰であるよりは拡散なのである.文学の主題=主体(文学の内部で語り,文学がそれについて語るところのもの)は実体性をそなえた言語であるよりは空虚,「私は話す」の赤裸々さの内部で言表される際に言語が自身の空間を見出す,そうした空虚であることだろう.
(Michel Foucault≪La pensee du dehors≫―柴田秀樹『ミシェル・フーコーの文学論と真理の問題─小説から演劇へ─』より)
む、むずい……。ぶっちゃけよくわかりません。「主体」を説くフランスの哲学者ミシェル・フーコーの言葉は難解です。が、しかし、真理に鋭く迫っていることだけはそこはかとなく感じられます。彼が生涯貫いた主体化から離れようとする思想には、作家を志す者のみならず、多くの現代人にとって考えるべきところがあるでしょう。フーコーは、偽物の主体を手にする“なんちゃって主体化現象”の氾濫によって、知性や創造性が減退していると説きました。近代以降の社会において、フーコーは個々の意志的行動であるはずの主体化に、まるでコピー&ペーストするかように根拠づけがなされていると見抜いていました。それはたとえば、社会の道徳的な活動のなかでの主体化、医学や健康の分野での主体化、体制や組織に立ち向かおうとする活動における主体化です。そして文学においては、主人公の主張や行動体系、精神を描くうえでの主体化ということになります。
作家になるために肝心なのは、客観的になって空虚を悟るところから何をするか――なのでしょう。フーコーにしても、空虚を知ってただ潮垂れろといっているのではなく、個々が新しい主体化を模索しはじめる社会を期待したはずです。もちろん、主人公にはさまざまなキャラクタライズが施されるわけですから、どの作品の主人公もヒロイズム全開でなければならないということはありません。純文学などであれば、ただただ静かな主人公だっていくらでも見つけられます。ただ、どんな作品だとしても、真の意味での「主体化」の問題は切り離せません。主人公の造形とは生きた「個」を創ることにも等しく、それすなわち、主人公の見目形や嗜好性以前の「魂」から創造するということ。既存の価値観やキャラクターから離れた、空虚から見いだす新たな主体化。そこにこそ「主人公のつくり方」の神髄があるのではないでしょうか。
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