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「自由」という言葉、この未就学児でさえふつうに使う言葉が、本来、哲学用語であることはあまり知られていません。といっても、本稿でそこを掘り下げようというわけではありません。カントもサルトルも、哲学的考察や定義などは堅苦しいばかり。作家と哲学とは遠からず近からずのイメージもあるので触れてみたくもなるわけですが、そうするうちに禅問答のような出口のない迷路に入り込み、いつしか本末転倒の罠にハマり……結果、自由の何たるかを掴もうとしたはずなのに、もはや不自由に。本を書く筆も止まってしまうわけですから、「自由」とは原稿を起こす前に一から十まで習得しておくべきこととは思えません。
とはいえ「自由」は、小説世界においても最大といってもいいテーマ。雁字搦めの現世界から魂を昇華させるための、唯一最後に残されたギリギリの営みが、小説の執筆といってもいいほどです。では、「自由」をテーマとした小説執筆に臨もうという前に、どのように何を切磋琢磨すべきかといえば、それは「自由」の字義的な本意を誤解なく捉えた上で、“その向こうにどんな世界が存在し得るか”――を考えていくことではないでしょうか。そこに「哲学」は不要。ただし、想像力はいうにおよばず、論理的思考法や時代風俗を読み解く視点が必要となってきます。
まずは言葉を定義しましょう。「自由」とは、「心のままであること、あるいは外的束縛や強制がないこと」(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』より)です。つまり、心身ともに人間にとって望ましい状態を意味するのですが、何の「束縛」も「強制」もないということは、いわば野放図状態? いえいえ、その誤解がためによく見られるのが「自由のはき違え」なのです。ハロウィン当夜の渋谷センター街、毎年ワイドショーを賑わす荒れた成人式……あれが自由ですか? といえば当然NOなわけです。と、まずはこのように、作者が定めたルールに基づく明確な線を引かなくてはならないのです。
加えて「自由」については、しばしば屁理屈にも近いような意見がもちあがります。「自由」といっても、何であろうとやりたいことが思うようにできない環境であれば、それは本当に自由な状態とはいえないのではないかという意見です。これについては(ここで奇しくも哲学者が登場)イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルが著書『自由論』のなかで示した、“他者の自由を尊重せずに勝手な振る舞いをしてはならない”という自由観に照らせば、おのずと答えが出るでしょうか。誰もが理解するように、自由のはき違えは秩序の崩壊を招きかねません。それでは作品世界そのものを構築すること自体が不可能となってしまいます。そのことを承知した上で、「自由」を描く物語の道筋を追ってみたいところです。
ほとんど近代に至るまで、「自由」とは特権階級だけが享受する、庶民には無縁の贅沢でした。ゆえに近代以前を舞台とした小説では、民族支配や階級支配から逃れて「自由」を手に入れようと闘い、苦難を乗り越えていく人々の姿が描かれました。近代になっても世界大戦以前は本質的にあまり変わりがありません。時代は移れど社会に封建的身分制度が存在する限り、「自由」「公平」という権利を勝ち取るための闘いが物語のテーマになってくるのです。カウンターカルチャーに沸いた1950〜1960年代には、「自由」とは既成文明に背を向けることを意味しました。それは放浪であり、フリーセックスやドラッグへの信奉でした。ジャック・ケルアックの『路上』(『オン・ザ・ロード』として2007年河出書房新社より新訳版が刊行)はこうした時代の「自由」を描いた代表作といえるでしょう。
1970年代以降、「自由」の表現の幅はさらに大きく広がっていきます。安部公房は「自由」の本質、原型を描いたともいえる10枚に満たない掌編小説『鞄』を、自選の作品集に収録しました。それは、ひとりの青年が大きな鞄を抱え、半年前(!)の求人に応じてくるという物語です。
べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている。私は、ためらうことなく、何処までもただ歩きつづけていればよかった。選ぶ道がなければ、迷うこともない。私は嫌になるほど自由だった。
(安部公房『鞄』/『笑う月』所収/新潮社/1984年)
雇用主は青年にいろいろと質問するのですが、まるで互いに異なる問題を異なる数式で解いてでもいるように話が噛み合いません。「大きな鞄」は、「自由」に重大な影響をもたらす象徴的アイテムです。といって、「枷」とか「責任」とかいった単純な束縛物とは違います。それは「自由」に関わるもっと深遠で緻密な要素として作中に存在、「嫌になるほど自由だった」という一文は、真に自由になれない人間の拭いようのない本質を暗示していたのでした。
無論、安部公房の難解な数式のような「自由」の物語から離れた、異なる方向性も考えられるでしょう。たとえば、熱愛してやまないものが消滅した世界を舞台に描く「自由」とは、どのようなものであるか――。
「どうしたらいいか、わかんないよ」スマッジャーがぐちった。
「甘いものがない、チョコレートがない。石をのみこんだって感じ。体ん中で、なにかが死んじまったみたいだ」
「おまえの甘いもの好きな部分が死んだんだよ」ハントリーが言う。
(アレックス・シアラー著・金原瑞人訳『チョコレート・アンダーグラウンド』求龍堂/2004年)
アレックス・シアラーの『チョコレート・アンダーグラウンド』に描かれるのは、チョコレートが禁止された世界。人民は大好物のチョコレートを食す自由を失ってしまうのです。禁じられた嗜好品。禁じられるほどにその甘味が増すのは想像に易いです。しかし手を出したことがわかれば、強制収容所へ送られるなど重い罰が科せられます。ああ、チョコを食べるとはいかに甘美な自由であったことか……というお話で、これはもちろん、ナチスや禁酒法時代をもじったユーモアであるのですが、現世から消えるのがチョコレートではなく、また別の“何か”であったなら、どうでしょう。まったく違った世界、空気感が生まれてくるのではないでしょうか。
「自由」を当たり前に享受する一方で何も考えずにいれば、私たちの魂は渇望や飢餓とは無縁のまま。作品は生まれようもありません。それどころか、現状を「自由」と勘違いし安穏と過ごしているのだとすれば、本来の自由とはいよいよ遠く離れた場所に位置していることになります。先人が闘い勝ち取ってきた「自由」、人間の権利と認められている「自由」。けれど、いまさらことさらに波風立てて得る必要があるのかないのかも曖昧な「自由」。だからこそいままさに、その意味を改めて真剣に考える時期に来ているのではないでしょうか。本を出版したいと作家を目指すあなたなら、なおのこと……。
※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。
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