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古今東西、世の中にはさまざまな「味」がありますが、不味い物好きという人はひとりもいません。「世界一臭い食べ物」として有名な塩漬けのニシンの缶詰『シュールストレミング』にしても、馴染みのない人からすれば「不味い」と感じられるかもしれませんが、それを好む当人にとっては「ウマい」と感じられるからこそ口にするわけです。そういう意味で、すべての人は不味いよりは美味しいものを食べたいと思うし、美味しそうなものを見たり聞いたり読んだりすれば気はそそられ生理現象も催します。料理本や美食エッセイが人気を集めるのもむべなるかな、ですね。であれば、本を書きたい人、エッセイストになりたい人にとって、「食」は無視できない分野ということになり、じゃあどんな料理本、どんな美食エッセイを書こうかナって話にもなるわけです。いや、ですが、ちょっと想像するだけでも、安ウマからほっこりおうちごはん、老舗に高級、都内某所のトレンドのレストラン……と、世はありとあらゆる美味を喧伝する惹句であふれかえり、書店を覗けば目にも美味しそうな書籍がこれでもかと平積みされている状況。これじゃあ無名の作家志望者の出る幕はないとうなだれもしましょう。でも、ちょっと待った。このブログでは幾度となくお伝えしていることですが、あなたの書く手を止めてしまうような固定観念は、エイヤッと引っ込めてください。戦略や隙間観察や努力なしには、どんな分野だって栄達はないのですから。
とりわけ今回テーマとして取り上げる「美食エッセイ」ならば、料理道の心得なしにレシピ集をイチから書き起こそうというより格段にハードルが低いでしょう。書くのが簡単というわけではありませんが、「美食」を書くのになにも高価高級な食材限定ということはないわけで、マツタケとシメジ、キャビアとトンブリの区別に重きを置かない人だって、自分だけの食の体験や記憶をもっているはず。それどころか、食事そのものはさておき、食卓におけるエピソードならばことかかない人にだって門戸は開かれています。食にまつわるエピソードやエッセイのなかで展開される書き手の感覚に、読者が共感を寄せてくれればいいのですから、勝負の勘所はやはり「筆」ということになるでしょう。
美味美食を題材に市場で花盛りなのは、誰にでもつくれる、誰にでも味わえるという庶民近接路線と、ちょっと背伸びして一流フレンチ、みたいな夢と憧れ路線。だからといって、これらに乗じるのは無難なようでいて浅はかというものです。作品を書く前に、書店の平台に展開されるグルメ本の山を夢想して、その一角に食い込むこと以外に道がないかのように思い込む必要はありません。重要なのは、あなたが体験した、目にした、考えた、美味美食を語ること。それが市場傾向と水と油、正反対、無関係であろうとも、上等だと威風堂々我が道を行きましょう。
小説家、フランス文学者、評論家でもあった澁澤龍彦の『華やかな食物誌』は、まさに著者がいうところの「奇想の食物誌」。奇行と妄想に走る古代ローマやフランス宮廷の美食にまつわる逸話を集めた一冊です。アナゴに奴隷の肉を与えて飼育するアウグスティヌス帝時代の話など、現代ならエグいと眉を顰める人もありそうですが、そんなのは知ったことではないと著者は平然たるもの。そんな奇譚の向こうを張るのはクラシック。森鷗外の愛娘、森茉莉の愛読者はいまなお多く、没後30年ほどが経った2016年に刊行され、いまなお入手可能なのが『紅茶と薔薇の日々』と題された美食エッセイです。まさにビロードの緞帳(どんちょう)が幕開け薔薇の花びらが舞うかのごとく、本作の紙面には読み手が喉を鳴らさずにはいられない深窓の美味が居並びます。といって、食のランクで己のランクアップを狙う上昇志向強めの美食三昧とはひと味もふた味も違います。日本のフレンチの草分けでもある精養軒が出てくれば、婚家でつくる手製の鮭のホワイトソオスも並びます。そのくせ「シチュウは不潔」と言って食べなかったり、葬式饅頭をご飯にのせて茶漬けにする父・鷗外のエピソードも添えられたり、チョコレエト、キイチゴにグミ、ライムと作中に登場する食べ物の響きそのままに、その当時としてはハイカラでアラカルトな楽しさにあふれています。美味しいものを食べないと小説が書けないと嘯き、晩年はベッドで料理をつくったという森茉莉。「美食家」を自負する者に特有の気取りを感じさせないにもかかわらず、その血管には本当に丹精した薔薇のエキスでも流れていたのではと思わせるところがまた、正真正銘の美食求道者の姿を思わせます。
シングルマザーの誇り高き先駆者、桐島洋子。大手出版社の職を捨て3人の子を引っ抱えて徒手空拳でアメリカを放浪して物書きの道を切り拓き、従軍記者としてベトナムで銃弾の雨をかいくぐったのちに涼しい顔でアオザイをまとう、潔く勇敢な女傑。そんな彼女が、40歳を過ぎて筋金入りエピキュリアン勝見洋一氏との結婚を機とした天衣無縫な美食体験を綴ったのが『美食の貝合わせ―牡蛎は饒舌だった』です。読むも涎の湧き出る食の数々が詰め込まれた贅沢な一冊ですが、贅沢といったってこちらもまた高級レストランや高価な珍味ばかりを紹介するわけではありません。フランスはヴィエンヌの伝説のレストランでの摩訶不思議体験を語るかと思えば、朝市の新鮮な食材に包丁を振るい、七輪でジュウジュウと油滴らせる鰯に鼻を蠢かせ、真っ赤に熟れたトマトのソースを仕込むホームパスタに断固たるこだわりを表明し、スキンダイビングで獲ってきたばかりの魚介を石油缶でグラグラ煮る野蛮派ブイヤベースに歓喜する──食と食材へのこの上ない敬意と親しみに満ちた、手間暇惜しまぬ食の体験を明かす漫遊記となっています。
「バルセロナのテラスの白い壁の激しい照り返しの中で食べた土鍋料理の海と山の幸が渾然一体になった濃厚な味が急に懐かしくなったわ。どこかあのワインのイメージに通じるものがあるのよ」
(桐島洋子『美食の貝合わせ―牡蛎は饒舌だった』/角川書店/1988年)
ある日、素性のわからない古いワインに合わせた料理をつくることになり、ひょっとするとアルジェリア産かと推測されたワインに、これはダメあれもダメと紆余曲折の末に辿り着いたのは、スペインのカタロニア料理。たとえ読む者が「カタロニア料理って何?」と首を傾げたとしても、桐島の筆による「熱い砂を口に含んだらかくやと思わせる土の味」「大地の重みをずしりと感じさせる」とのワイン評が目に飛び込んでくれば、それと舌の上で絡み合うカタロニア料理の個性的な芳香とスペインの強烈な陽差しが想像されてくるというものです。
人生の折り返し点を過ぎると、胃袋も残り時間を意識しはじめる。(中略)あと運よく三十年生きても二万回ちょっとしか食事の機会が残っていないのだと思うと、一度だっておろそかには食べたくない。うっかり不味いものやつまらないものを食べてしまうと、支払ったお金もさることながら、それ以上に貴重な食欲を浪費したという悔恨で、ムッと不機嫌になるのだ。
(同上)
食への強き意志を抱く桐島は、それまでの全人生が食卓に凝縮されるかのような“最後の晩餐”は何にしたいかと自らも考えながら、友人たちにも片っ端から尋ねていきます。それぞれの人柄や生き方が反映されるようなその返答に納得しながらも、さて自分は……となると答えに窮します。懐かしいあの味も、ここぞというときにオーダーするあの一皿も捨てがたい、末期の水だって清冽な甘露であってほしい──と、留まるところを知らない食いしん坊のこだわりと想像力に、我知らず読者も食の冒険世界へといざなわれていきます。
食に興味はないのだと言い切る人がいます。腹がふくれさえすればひとまずそれでいいという人も。でもそんな人だって、食べなければ死んでしまうので、何かしらを食べます。何を食べる? そんな質問にも、食に興味がないから、毎食食パンだとさもおもしろくなさそうに答えます。じゃあ昼は? いつもと同じ角の立ち食いそば。夜は? それも同じでいつものスーパーの割引シールの貼られた惣菜……。なるほど、なかなか「食」に絡めて話を広げられそうにはありません。しかし、そこには毎朝食パンであるならば、そして昼にしても夜にしても、その人相応の食事を選ぶ理由が必ずあるはずです。自身の食にここまで淡白な人に食にまつわるエッセイを書いてもらうことは難しいでしょうが、だからといって、その人と食とのあいだに一切のドラマがないかといえばそうではありません。その人を対象として、あなたがエッセイを書けないということはないはずなのです。毎日毎日、同じ食堂で飽きもせず同じメニューを頼み、ひとり片隅で麺をすする男がいる。年ごろいくつで、食後はいつも左の奥歯をちょっと痛がりながら楊枝でつつき…… そんな第三者の内面への洞察だって、作品に陰影をつける可能性を秘めています。美食からは少し話が逸れてしまいましたが、それだけ「食」のまわりには常に人間らしさ、もっといえば人間臭さがつきまとうということ。食の探求とは、食にまつわる人間の内面への旅でもあります。それこそがあなたが語るべき食の思想。生きとし生けるもの、誰もが日々体験する「食」。舌上の感性を鋭敏にして、体全体で味覚を感じとるかのように、一度、あなたのまわりの「食」について語ってみてはいかがでしょう。
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