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当ブログではこれまで多くの文豪、あるいは学者やアーティストを引き合いに、小説を書くためのコツや心得を紹介してきました。が、彼らの常人離れした創作への情熱や天才的なセンスを前に、かえって凡庸な己との差を痛感した方も少なくないのではないでしょうか。実際、後世にまで残る作品を書きあげるような作家というのは、これから執筆に臨もうという「未知数の人」からすれば、雲の上の存在といっても過言ではないのでしょう。しかし、文豪と称される作家であっても、所詮は人の子です。彼らの人生をよくよく調べてみれば、作品の向こう側に人間的な欠点や弱さが際立って見えてきます。それどころか、「文豪」という冠をはずしてみると、完全な「ダメ人間」としか呼びようのない人物も少なくありません。
以前、このブログでも紹介したように、太宰治は度重なる人妻との不貞と心中(もしくは自殺)未遂、近しい者への借金とその踏み倒し、薬物依存、その他もろもろ……といった自堕落っぷりに加え、芥川賞欲しさのあまり当時選考委員だった川端康成や佐藤春夫に受賞を懇願する長々とした手紙を送りつけるなど、その黒歴史は枚挙に暇がありません。
日本の自然主義文学を切り開いた傑作『破戒』の作者島崎藤村は、極貧生活の末に妻子4人を死なせてしまったり、姪と関係をもち妊娠させるなど、「奔放」などという言葉では済まされない逸話で知られています。戦後文学を代表する作家のひとりである野間宏は、痴漢、のぞき、つけ回し、性器露出といった破廉恥行為を繰り返す自他ともに認めるたいへんなヘンタイだったようです。
海外に目を向けても、ビート・ジェネレーションのカリスマ、ウィリアム・バロウズが麻薬中毒だったのは有名ですが、酔って遊んでいる最中に誤って我が妻の頭を銃で撃ち抜くなど、ちょっとひくワ……なクラスのエピソードにも事欠きません。フランス近代詩の父、シャルル・ボードレールはマザコンのうえに極度の浪費家で、最後は放蕩が祟り性病のため46歳で命を落としています。
とまあ、ここまでぶっ飛んだエピソードを連ねると、またもや「かえって凡庸な己との差」なるものが頭をもたげてくるのですが、極端な例と捉えてください。
いっぽうで、そんな破綻した生きざまを作品に昇華できるのも、「作家」という生きものであるといえるでしょう。『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』で知られる文豪ドストエフスキーは、極度のギャンブル狂で知られていますが、愛人との旅行の最中にカジノで盛大に散財した経験(と愛人とのドロドロの愛憎)をもとに書かれたのが、どストレートなタイトル『賭博者』なる作品です。しかも執筆のきっかけは、悪辣な出版エージェンシーとの不利な契約による危機的状況を打開するためであり、速記者の口述筆記によってわずか27日間で仕上げられたといいます。
ドストエフスキーの作家としてのすごさと人間的なダメさが同時に理解できる逸話ですが、ドストエフスキーに限らず、自身の「オワッテル体験」をもとに作品を書き上げた近代の文学者は非常に多く、少なくとも上に名を挙げた作家たちは皆、己の負の体験を題材にした作品を残しています。とはいえ、自分の精神的負債をダラダラと書けばそれで魅力的な小説が一本できる――ということではまったくなく、徹底した客観描写、自己の裡を深く見通す鋭い視点、読み手の好奇心を刺激する扇情的なエピソード、さらには事実を事実としてあえて書かない技巧など、それが芸術作品としての完成度の高さにせよ、下世話な話題性にせよ、何かしら突出した魅力がなければ人から認められるのは難しいでしょう。
葛西善蔵という小説家をご存じでしょうか。芥川龍之介や志賀直哉と並ぶ大正期を代表する作家のひとりですが、作品の性質に加え寡作ということもあって、今日ではあまり語られることがありません。葛西善蔵という作家について簡潔に説明すると、ほとんどの作品が私小説、それも破滅型の私小説を書きつづけた小説家でした。では、善蔵がどのような人生を送ったのかというと、結婚当初から嫁方の父に金銭をせびり、作家として評価されてからも生活は困窮を極めたため、妻を実家へ金策に走らせ、子らを親元に預け、自分は愛人と同棲して子をふたりも産ませています。また、ひどい酒飲みで、晩年はアル中で筆を持つことすらできず、口述筆記者に頼ってなんとか作品を仕上げていたといいます。これだけ読めば、誰もが「ただのクズ」と感じるのではないでしょうか。ただし、こういった善蔵の破滅的な生きざまが「小説家」たらしめる行動様式に基づくものだとすれば、それは、少なくとも小説家としては苛烈なまでに己の哲学を貫いた生涯だと評することもできるはずなのです。
善蔵にとって文学は常住坐臥(じょうじゅうざが)の生活における自己鍛錬でなければならなかった。昔から鍛練ということは、人生の危局に対処できるように、不如意な条件を自ら設定するところに成立していた。善蔵においても、この点に変りはない。彼の鍛錬は、近代社会から自らを疎外すること、自らを求めて不如意のなかに置くことによって成立している。
(田中保隆「葛西善蔵仮説」/『文学』岩波書店/昭和二十九年十一月号掲載 ルビは引用者による)
つまり善蔵は、社会的存在としての自己を否定することによって、作家として生きようとする自己の立場を肯定しようとしたのである。
(大森澄雄「葛西善蔵と私小説」/『解釈と観賞別冊 現代文学講座4 大正の文学』所収 至文堂/1975年)
上述ふたりの研究者が評しているとおり、善蔵の作品には生活に倦んだ作家の不如意な日常と周囲の人々との関わりばかりが綴られています。具体的には、友人に借金をしたとか、子どもの養育も満足にできないとか、愛人と喧嘩したとか、病で血を吐いたとか、そんな己のおかれた被虐的な状況を描くことに終始しているのです。一見すると、行き詰った境遇に対する愚痴を垂れ流しているだけとも受け取れる内容です。実際、評論家のなかには、そんな善蔵の作品を「酒飲みのクダ」と酷評する者も少なくはありませんでした。それに対して善蔵は以下のように反論しています。
妥協しない、自分が認めないものを強く排斥する――さういふ気持ちは、僕にも分らないではないが、文壇一般的に考へて見ても、言論の上だけで妥協しないと言っても、根本の生活そのものが妥協の上に成り立つて居るのでは、仕方がないではないか。
(葛西善蔵「随筆 小感」/『不同調』所収 不同調社/大正十五年三月号掲載)
「一生活者」でもある文芸評論家の自己欺瞞を痛烈に批判するこの一節は、まさしく非常識なまでに妥協しなかった善蔵だからこそ説得力のある言葉として響きます。が実際、善蔵のように、小説の糧とするためどこまでも転落する人生を選ぶことは、余人には到底真似できないでしょう。
俺達は自分自身を喰ひ盡(つく)して、初めて眞劍に他に鋒を向ける權利と強味が出來るのだ。滅びよ!新しく生きんだ。俺達は決して生活なんといふことを苦にしてはいけない。(中略)俺達はどん底に落込んで初めて最貴最高の生命を呼吸することが出來るのだ。(中略)俺達は一切を否定し一切を破壞してこそ初めて眞の絶對境に到逹することが出來るのだ。
(葛西善蔵「悪魔」/同人文芸誌『奇蹟』所収/大正十五年十二月号掲載 ルビは引用者による ※「強・絶」の字は文字化け対応)
善蔵の第2作目『悪魔』における登場人物のセリフです。作家としてのデビュー間もないころから、すでに「人ト爲リ友親ヲ絶ス」という彼独特の信条に従い創作に向き合っていたことが窺えます。さらに、上のセリフは以下のように締めくくられています。
願はくばこの地上一切の滅びの美を見せしめ給へ!
(同上)
ついにはアルコールと結核でボロボロになり、41歳という若さで命を落とした善蔵は、人間として幸福であったかどうかはともかく、小説家としては本望な死にざまだと、自己をはじめて肯定的に評価したのではないでしょうか。他人に対しては終始不誠実であった善蔵。しかし創作に対してはだけは、人生を懸けて誠実を貫いたといえるでしょう。その強烈な生きざまは、小説で身を立てようという「火種」を心に灯す者に、まずは何より自分の作品に真摯であれと伝えているようです。
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