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香しき「花」で物語に華やぎを

2018年03月23日 【小説を書く】

別角度から見る“花の美しさ”

「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」

この一文をご存じでしょうか? 作品タイトルや広告コピーにオマージュとして用いられたり、一部言葉を変えて使われたり(村上龍は『桜の樹の下には瓦礫が埋まっている。』というタイトルで随筆集を上梓)、各種の読みものやメディアのそこここに登場するので、なんとなく見覚えのある方もいるのではないでしょうか。楚々として、あるいは絢爛として……いずれにせよ桜は「美しさ」を示す装飾語を身にまとう立場ですから、「屍体」とはまるで別次元に存在するものなはず――なだけに、この意想外の取り合わせは、その画を想像する者に電撃的なインパクトを与えます。

鮮烈な一文の生みの親は、作家の梶井基次郎。1932年(昭和7年)に31歳で他界した彼の、その文学的真価を死後揺るがぬものとした一作が、このフレーズを冒頭に冠した掌編小説『桜の樹の下には』です。梶井の登場以前も、咲き誇る桜に妖しさやエロスを結びつける作家はいたはずですが、その閾(いき)を飛び越え、惨劇のデカダンスを並列させてみる者はいませんでした。梶井のユニークさのひとつはこうした点にあり、夭折の作家は近代文学に「花」を見る新たな視点をもち込んだといえます。

尋常ならざる美の、尋常ならざる理由

 おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。
 馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。
 何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。
(梶井基次郎『桜の樹の下には』/『檸檬・ある心の風景』所収/旺文社/1974年)

梶井が『桜の樹の下には』の構想を得たのは、結核を病んで転地療養した伊豆・湯ヶ島でのことでした。眼前の山を白く煙らせるほど見事に咲く桜を飽かずに眺めた梶井は、ああ、僕は来年もあの美しい桜を眺められるだろうか……などとは露とも思わず、あれほど生命力豊かに繚乱と咲き誇っているのは尋常ではない、もしかするとほかの命から“エキス”を吸い上げているのではないか、と醜穢(しゅうわい)な内幕を想像したのでした。また、この作品にはウスバカゲロウの累々たる死骸が登場します。主人公の「俺」はそれ以前にウスバカゲロウが美と愛の女神アフロディーテのように舞いあがっていく光景に接しており、それはちょうど、何万匹ものウスバカゲロウが死んで水たまりに油を流したような光彩を作る奇妙な光景とくっきりとした対照をなしています。満開の桜と腐乱死体、ウスバカゲロウの幻想美とグロテスクな末路。胸を病んで療養していた梶井は、死を見つめていたというよりも、むしろ生を解き明かそうとしていたのかもしれません。それも、不遜といえるような態度で――

余談になりますが、次に引用するのは、転地療養先を紹介してくれた川端康成に梶井が近況を知らせた書簡。『桜の樹の下には』と並べて読むと、単純ではない面白味を感じさせます。

山の便りをお知らせいたします。櫻は八重がまだ咲き残つてゐます つつじが火がついたやうに咲いて来ました 石楠花は湯本館の玄関のところにあるのが一昨日一輪、今日は浄簾の滝の方で満開の一株を見ましたが大抵はまだ蕾の紅もさしてゐない位です
げんげん畑は堀り返へされて苗代田になりました。もう燕が来てその上を飛んでゐます
(『梶井基次郎全集 第三巻――書簡』筑摩書房/2000年)

「人」を取り除くことで現れる、花咲く異世界

梶井は近代文学に「花」を見る新たな視点を導入したと書きましたが、実はこの「美しさゆえに怖ろしいものを感じる」という観念は、ある分野においてはかなり昔からあったものなのです。ある分野とは、庶民のなかから生まれた民話・伝承の世界です。現代人が愛でる交配種ソメイヨシノが誕生するよりはるか昔、完全な自然物であった桜の、春になると山を別物のように変えてしまうこの世のものならぬ所業に、素朴な人々はどこかしら怖れを感じずにはいられなかったのかもしれません。そのような説話の形を借りて桜のあやかしを描き、天才作家の随一と絶賛を博した作品があります。文芸評論家・奥野健男をして「芸術の神か鬼」(ホメてるんですよ)と呼ばしめたその作家の名は、坂口安吾。

「桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になります」との語りではじめられる物語の舞台は鈴鹿峠。この山に棲みつき旅人を襲っていた山賊は、怖れるものが何もありませんでした。ただ、桜が満開の春に森に入ると何ともいえず怖ろしい気分になりました。あるとき、いつものように旅人を殺し女を手に入れますが、その女は美しいがひどく身勝手で、欲求ばかり言い立てて山賊の男を翻弄します。やがてふたりは女の希望で山を下り都に出ることに。しかし都でもなお女の欲望は尽きず、しまいには人間の首を欲しがるようになりました。一方の男は、殺生を繰り返しながらも都暮らしの退屈さに苦しみ、とうとう恋しい女と離れても山へ帰ると宣言するのですが……、状況を先読みした女は計算づくで同行を決めます。女がいっしょに山へと帰ってくれるという思いもかけぬ幸福に包まれた男は、女を背負い怖れも忘れて桜の森の道を進んでいくのでした。

 そして桜の森が彼の眼前に現れてきました。まさしく一面の満開でした。風に吹かれた花びらがパラパラと落ちています。土肌の上は一面に花びらがしかれていました。この花びらはどこから落ちてきたのだろう? なぜなら、花びらの一ひらが落ちたとも思われぬ満開の花のふさが見はるかす頭上にひろがっているからでした。
 男は満開の花の下へ歩きこみました。あたりはひっそりと、だんだん冷めたくなるようでした。彼はふと女の手が冷めたくなっているのに気がつきました。俄(にわか)に不安になりました。とっさに彼は分りました。女が鬼であることを。突然どッという冷めたい風が花の下の四方の涯から吹きよせていました。
 男の背中にしがみついているのは、全身が紫色の顔の大きな老婆でした。その口は耳までさけ、ちぢくれた髪の毛は緑でした。男は走りました。振り落そうとしました。鬼の手に力がこもり彼の喉にくいこみました。彼の目は見えなくなろうとしました。彼は夢中でした。全身の力をこめて鬼の手をゆるめました。その手の隙間から首をぬくと、背中をすべって、どさりと鬼は落ちました。今度は彼が鬼に組みつく番でした。鬼の首をしめました。そして彼がふと気付いたとき、彼は全身の力をこめて女の首をしめつけ、そして女はすでに息絶えていました。
坂口安吾『桜の森の満開の下』/『坂口安吾全集5』所収/筑摩書房/1990年)

このくだりで何が怖ろしいかといえば、鬼の相貌にも増して“静寂”です。桜の花びらが舞い落ちるほかはすべての音が死に絶えたかのような静寂。それまで延々つづいた女のかしましい饒舌も、桜の森に踏み入った途端に止み、気づけば男の背で女は無言の鬼になっていたのです。桜の見せるあやかしでも、これほど怖ろしいものはありません。貪婪な女は死んで口を閉ざし、残忍な男は孤独の淵に沈み、あたかも桜の森の一部となったかのように消えてしまいます。満開の桜の下には再び人の姿のない静寂が訪れます。異質な男と異質な女が、桜の森という異郷に飲みこまれていった――そんな幕切れです。

「花」が振りまく無限のニュアンス

香しい花の姿は文字どおり作品に“華”を添えるものです。小説や詩のなかでさまざまな比喩や象徴として描かれるその風情は、確かに多くの人の目にも美しく映ることでしょう。ですが、作家になりたい、詩人になりたいとその道を志す者であれば、美しい花をただ美しいままに見ていては、比喩としても象徴としても、その設定はいささか素直すぎる――ということを知っておきたいところです。画家はモチーフの表層に加えて、その内部に宿る「本質」を捉えて絵に描くわけですが、作家にしても当然同じことがいえます。誰もが見るのと同じように花を見て、誰もが思うのと同じように想像し、誰もが用いそうな表現で花を描いていては、誰もが書けるのと同じことを、ただあなたが繰り返しているだけのことになってしまいます。

さまざまな変型バージョンがあるフランスの諺「棘の無い薔薇は無い」は、どストレートに読んでもやはり含蓄のある言葉です。“美”には、人の目に映らない別の相があるわけです。その色には微妙なグラデーションだってあります。“美しさ”には、そんな無段階で多様なニュアンスがあるのです。ニュアンスを見極める目とは、すなわち芸術的な目。そして、そのニュアンスをいかに表現するか考え想像することこそ、作家修業、創作修業の大きな一歩といえるのです。取りも直さず、限りなく多彩なイメージを喚起してくれる「香しき花」とは、作家にとって必要不可欠な存在だといえるのでしょう。あなたの文机にも一輪の花を飾ってみれば、きのうまでとはまた違うニュアンスを醸す一文が書けるかもしれません。

※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。

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