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「悲劇」という言葉が生まれたのは古代。そもそもそれは「ギリシア悲劇」を限定して示す言葉でした。いまでこそ“名家の悲劇”とか“ドーハの悲劇”とか“人気とんかつ屋の悲劇”とか、日常のありとあらゆる出来事が「悲劇」と喩えられ、各種創作・制作物を形容する際にも、ごく当たり前に添えられもしますが、もともとは演劇というジャンルにおけるひとつの形式、あるいは戯曲そのものを意味する言葉だったのです。
そんな「悲劇」ですが、2000年以上も前にすでに娯楽の一形式として成立していたという史実、そして現代においても日常のそこかしこでその2文字を目にするという事実――これらが何を意味するかといえば、つまり古代以来ずーっと、悲劇は人々の感興を誘う一にも二にもない演目だったということです。では、なぜ人々は悲劇にそうも惹きつけられるのでしょうか。それは人間心理や性情も無関係ではないと思われますが、ここでは心理分析は置いておくこととします。どのような心理に関わっているにせよ、訴えてくるのは悲劇の質、物語としての構造です。小説を書く、作家になる、と心に決めた方向けに情報を発信する当ブログとしては、心理学的なアプローチは避け、具体的な例文を引いて、悲劇のいったい何が“効く”のかをお話したいと思います。
悲劇。濫用されるほどの言葉ですから、世間一般ではその定義はあまり厳密ではないのかもしれません。とはいえ文芸や映像作品方面での悲劇とは、おおむね“主人公が破滅へと向かっていく過程を追うもの”と見てよさそうです。帰着点が予見されるからこそ、目が覚めるように鮮やかな起承転結の創案を載せた豊かなドラマ性を備えることが必須となるのでしょう。またそこには、興味深い示唆が立ちのぼってきます。いみじくもチェーホフは自作の『桜の園』を引き合いに出し、悲劇と喜劇は背中合わせであることを指摘しました。確かに、ドラスティックな破滅を遂げていく主人公を描くドラマが、一種の喜劇的要素をもち得るというのは理解できるところ。啓示にも近いこの示唆は、作家を志す者が悲劇を描く上で前提として知っておかねばならぬ要諦なのかもしれません。
悲劇を描いた世界的に有名な作家は? と来れば、やはり一等に名前が挙がるのはウィリアム・シェイクスピアですね。400年以上前のイギリス・ルネサンス期に活躍したシェイクスピアは、ご存じのように後世に多大な影響を与えた詩人・劇作家です。『ハムレット』『マクベス』『オセロー』『リア王』の四大悲劇(『テンペスト』を加えて五大悲劇と呼ばれることもある)を世に送り出しましたが、そのなかでも最高傑作との呼び声が高いのが『リア王』です。
「風よ、吹け、うぬが頬を吹き破れ! 幾らでも猛り狂うがいい! 雨よ、降れ、滝となって落ち掛れ! 塔も櫓も溺れ漂う程に! 胸を掠める思いの如く速やかなる硫黄の火よ、柏を突裂く雷の先触れとなり、この白髪頭を焼き焦がしてしまえ! 」
(シェイクスピア著/福田恆存訳『リア王』新潮社/1967年)
愚かな老王の錯乱と破滅の物語『リア王(King Lear)』に種本があったことは知られています。『The True Chronicle of Three Daughters of King Leir』――通称『原リア』と呼ばれるその戯曲は、王と三姉妹の主要登場人物の設定や、親子がふた手に分かれて戦う展開こそシェイクスピア版『リア王』と同じですが、肝心要の勝敗は逆で、王と末娘側が勝利し、結末はハッピーエンドとなっています。シェイクスピアはここに、反転させたプロットを思い描いたのです。ホリンシェッドの『年代記』、モンテーニュの『随想録』などから箴言を引きつつ、『原リア』とはまるで読み味の異なる恐るべき悲劇の構造を創り上げました。
わけてもその手腕鮮やかであるのは、『原リア』には存在しないキャラクター、グロスター伯をリア王の忠臣として据えたことでしょう。実の息子(庶子)に陥れられるグロスター伯の物語は、フィリップ・シドニーの『アルカディア』の盲目の王とその息子たちの物語をリメイクしたもの。リア王と娘たちによるメインプロットの脇でサブプロットとして併走し、ドラマティックな二重奏となって悲劇をおおいに盛り上げてくれます。
『リア王』が四大悲劇のなかで随一といわれる理由は、その大胆にして端正な構成もさることながら、主役であるリア王の牽引力が挙げられるでしょう。すなわち、『オセロー』でオセローがイアゴーに唆されたり、『マクベス』でマクベスが魔女に惑わされたりといった外的要因なしに、リア王は自ら暗愚の道を突き進むこと雄牛の如し。その目を覆うばかりの愚かさが悲劇的迫真性を高め、観客を牽引するのです。しかも、リア王の狂気がラストにきて錯乱となって砕け散る、その爆発力といったら、観客は茫然自失するか地団太を踏むかという地獄の二者択一を迫られます。そんな結末には、チェーホフのいう哀れな滑稽味も確かに感知されます。
『リア王』に匹敵する悲劇といえば、ソポクレスによるギリシア悲劇『オイディプス王』が挙げられるでしょう。『リア王』の物語構成が大胆に無駄を削ぎ落した完璧さであるとするなら、『オイディプス王』の構成は計算され尽くした精緻な完璧さです。『リア王』が人間の手のつけようがない愚かさが生む悲劇であれば、『オイディプス王』は運命が呼ぶ円環が閉じるような避けがたい悲劇。疫病が猛威を振るうギリシアの古代国家テバイで、王オイディプスが国を救うため、先王を殺した者を罰せよという神託に従い犯人を探すと、それが実は当のオイディプス自身であったことがわかり、自らを罰し両目を潰す――という結末に至る物語です。
話そう。私の父はコリントス王ボリュポス殿、母はメロペ殿。
ある時、私がもらい子だとの噂がたった。父母は怒って否定した。私はその事を確かめるため、アポロンの神託を受けに行った。
神託はもらい子かどうかは答えず、「父親を殺し、母と交わり忌わしい子をなすだろう」と。
(ソポクレス著/藤沢令夫訳『オイディプス王』岩波書店/1967年)
生まれて間もなく父を殺す者であると予言され、母によって葬られるはずであったテバイの王子オイディプス。山中にうち棄てられるも、隣国の王夫妻に拾われ生き延びます。しかしのちに忌まわしい神託――父親を殺し、母と交わり忌わしい子をなすだろう――を受け、その悲劇の結末を避けるべく、養父(とは彼は知らない)のもとを離れ辿り着いたのはまさかの生国テバイ。しかも彼は道中、行き違った実父を実父とも王とも知らず殺しています(出会った怪物も)。テバイに入国したオイディプスは怪物討伐が認められ王の座に就き、何も知らぬまま実母を妃とします。やがてすべての真相がオイディプスの眼前でも明らかになり……彼は悲惨な運命の奈落へと落ちていきます。自らの意思で養父を捨て旅立つなど、運命に抗って生きてきたように見えたオイディプス。しかしその運命があたかも一巡して円環を閉じたかのように、避けられなかった悲劇の結末へと向かうのです。
『オイディプス王』には、芥川賞選考委員の作家島田雅彦が「黄金分割」と呼んだ優れた起承転結の構造があります。冒頭、オイディプスは王宮の重い扉を開いて登場し、予言者から自分が先王の殺害者であるという思いがけない言葉を聞きます。つづいて、憤慨したオイディプスが真相究明に乗り出すという、推理小説の謎解きを思わせる展開へと進んでいきます。その構成はきれいなシンメトリーを描くように、ストーリー全体の中央地点で「転」部を迎え、恐ろしい破滅の予感を波立たせながら、怒涛の「結」部へとなだれ込みます。オイディプスの悲劇は、彼が善き王であること、自らが探索者となって真相を引き寄せたがために逆に運命の手に落ちてしまうこと、そしてわけても、知らずして「父殺し」と「母子相姦」という人間の最大禁忌(タブー)を犯してしまうことです。フロイトの「エディプス・コンプレックス」の語源でもあるオイディプスという名の王。存在自体がすでに罪――。自らが残してきた足跡の相関がひとたび符合するや、彼が築き上げてきた人生は一瞬にして崩壊してしまいます。生と運命への問いを孕んだ最大の悲劇に、あなたは何を見るでしょうか。
記事冒頭で触れたように、人間には「悲劇」を好む生理とも呼ぶべき嗜好性が備わっているようです。小説を書く、物語を創る側としては、その感受部位にいかに訴えたものか……と頭を巡らすことは必要です。ですが忘れてはならないのは、シェイクスピアやギリシア悲劇が、人間の本質や存在性、生の不条理といったものを、真正面から抉るように深く見据えていること。短絡的に「悲劇」の枠組みをもち込んでいるのではないのです。ゆえに、悲劇にいわゆる名言がちりばめられているのも、むべなるかな。本物の悲劇とは、舞台や映画や小説のなかだけの絵空事ではありません。華やかな舞台設定や道具立てを取り払った“本質的な悲劇”とは、実は誰の身にも起こり得るもの。あなたが描く物語がその根幹に人間、生、運命への確固とした理解と思想をもち得ればこそ、重々しい悲愴な調べを奏で観客や読者のエンパシーを呼び起こすのです。
本を書きたいと夢見ながら、思い果たせず足踏み状態にあるというときこそ、本格的な「悲劇」に目を向けてみるのも一法です。古代ギリシアやルネサンスの大舞台で喝采を浴びた大物の悲劇には、物語づくりのヒントが詰まっています。シェイクスピアやギリシア悲劇が教えてくれるのは、「本物の悲劇」「極上の悲劇」とはいかなるものかということ。その薫陶を胸に、本を書くという目標にもう一度向き合ってみれば、「書けない」状況を脱する光明を肌に感じるはずです。たとえ描く悲劇が救いのない悲惨な物語だとしても、その悲劇を創作するというチャレンジ自体は、あなたの輝ける未来への第一歩にほかならないのですから。
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