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「フェミニズム」というと、男性なら、ちょっと眉をしかめたり、興味ナシとことさらに無表情を装ったり、「よ、よく知りません」と変にビクビクと目を逸らしたり、あまり自然な反応を期待できないような気がするのですが、こうした勝手な想像も、いまや男性に対するひとつの偏見といえるのかもしれません。何かの共通項でくくったカテゴリの性質を、十把一絡げにAだのBだの断じること自体が、今日の社会においては「多様性を欠いた視座」、つまり「偏見」と見なされるからです。ただ、どうしたって人は、「フェミニズム」に限らず「――イズム」という言葉の前には少々たじろいでしまうもの。他者が“これ”と信じる主義主張に関しては、そうやすやすと触れられるものではありません。相手を尊重しようとすれば、やはりどこか畏まってみたり、少しの距離を置いてしまうのは仕方のないことなのでしょう。「対立したくない」の意識が働けばなおさらです。
ただし、何らかの野心をもって「本を書きたい!」との目標を掲げるのであれば、目に見えぬ怪物を恐れるようにイズムとの対峙を避けていてはなりません。それが存在しないかのように、無知・無関心を決め込むことは許されません。本稿ではとりわけフェミニズムを取り上げてみますが、それは現代の男女のあり方や性の問題、LGBTに関する観念、それらにかかわる思想のみならず、すでに社会システムに組み込まれている枠組みや指針に至るまでが、フェミニズムとその歴史と無縁ではないからです。つまり、世界全体の人間活動を今日まで運んできた蠕動運動のようなものがあるとすれば、その動力が多種多様なイズムであり、そのうちのひとつフェミニズムもまた、大きな役割を果たしてきたということなのです。
「フェミニズム」という言葉自体は充分に一般的なものですが、その意味を正確に説明できる人は多くはないのでは――と推測します。下手をすると、女性の前に先まわりして自動車のドアを開ける、レストランで椅子を引くといったレディファーストな紳士の態度を「フェミニスト」と呼んでみたり、なかには“女性に優しくすること”くらいに思っている人もいるようです。また、類似した方向性で捉えてはいるものの、女性解放や男女同権や女権拡張といった主張であるとか、1960年代アメリカのウーマン・リブとか中ピ連とか、そのあたりの理解とごちゃ混ぜになっている人も少なくない様子です。フェミニズムは、現在に至っては宗教宗派のごとく枝分かれしてその思想領域も広がり、ひとつに定義づけすることが難しくなりましたが、その起源を探るなら、それは18世紀末のフランス。マリー・アントワネットが断頭台の露と消えた、あのフランス革命(1789年〜1799年)のさらに源流域にまで遡ることになります。
女性の教育はすべて男性に関連させて考えられなければならない。男性の気に入り、役に立ち、男性から愛され、尊敬され、男性が幼いときは育て、大きくなれば世話をやき、助言を与え、なぐさめ、生活を快いものにしてやる、こういうことがあらゆる時代における女性の義務であり、女性に子どものときから教えなければならないことだ。
(ジャン=ジャック・ルソー著/今井一雄訳『エミール』岩波書店/1962年)
フランス革命が起こるおよそ10年前にこの世を去った18世紀フランスの思想家、ジャン=ジャック・ルソー。彼が著した『エミール』は、児童教育について物語風に綴った教育論の古典というべき一書です。そのなかでルソーが説いた「女性の義務」としたこの教育論に、後年、イギリスの思想家メアリ・ウルストンクラフト*が噛みつきます(この文脈で「噛みつく」と表現することがすでに差別的であるということを示すためにあえてこう書いてみました。現代の日常のそこここに遍在する反フェミニズムとは、つまりこういうことなのでしょう。)。革命の嵐が各地で吹き荒れはじめた1792年に『女性の権利の擁護』を出版。これぞフェミニズムの幕開けだったのです。が、しかし――。
*メアリ・ウルストンクラフトの娘は『フランケンシュタイン』の著者メアリ・シェリー/当ブログ内『「初物」に文学的源流を探る』参照
近代ヨーロッパ史を語る上でその軸ともなるフランス革命は、階級差別を撤廃しブルジョア社会の礎を築いた市民革命で、現代の社会通念にもつながる「人権と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)」という輝かしい所産を残しました。ところが、ここに驚くべきひとつの事実があるのです。人権宣言のこの「市民」という言葉、実は男性のみを指していたのです。それが当時の認識としては当たり前であったとはいえ、今日ではちょっと考えられない、いや開いた口がふさがりません。革命に参加した“市民”たる男性諸氏は、人口のおよそ半分を占める女性たちから、よもや文句が出るとは思ってもみなかったようです。
フランス革命の端緒のひとつに、ルソーの啓蒙思想があったといわれます。そのルソーをして「マジか!?」と思わせる前掲の『エミール』の記述。「男性に気に入られることが女性の義務」だなんて、引用するにもちょっと気が退けてしまいます。ルソーは『エミール』の刊行が機となり(体制批判の著として)国外へ逃亡する羽目に陥りましたが、いまの時代に出版したとしても、また別の角度から追及されていたのではないでしょうか。しかしまあこれこそが、後世の感覚では窺い知れない歴史の真実の一端なのだといえましょう。
とにもかくにも、その後メアリ・ウルストンクラフトが登場してくるなどして、世界のフェミニズムは蠢きはじまります。それから20世紀初頭にまでつづく100年あまりが「第一波フェミニズム」と呼ばれており、その末期は日本でいえば大正デモクラシー。平塚らいてうや与謝野晶子が女性の権利を謳い、我が国におけるフェミニズムの黎明期となりました。
誰でも、ものを書く者にとって、自分の性を意識するのは致命的だということです。意識的な偏見を持って書かれたものはどんなものでも、滅びるのが定めですから、それは豊かにふくらみません。一日か二日は、才気に溢れ、効果的で、力強く、見事に見えましょうが、夜にはしぼんでしまうに違いありません。それは他の人々の心の中で育つことをしないのです。創造という技が達成されるには、精神において、女性的部分と男性的部分との間になんらかの協力がなければなりません。相対するものの統合が達成されなければならないのです。精神全体が広く開かれ、自由がなければならず、静謐がなければならないのです。
(ヴァージニア・ウルフ著/川本静子訳『自分だけの部屋』みすず書房/2013年)
「第一波フェミニズム」を締めくくるに相応しい、おそらくはその当時、次世代型フェミニズム文学の先駆と目されたであろうヴァージニア・ウルフ。モダニズム文学の旗手のひとりである彼女の『自分だけの部屋』は、1928年にウルフがケンブリッジ大学の女子学生に向けて行った講演の記録をまとめたものです。この作品でウルフは、女性が創作活動をつづけていくためには、生活が成り立つだけの収入と鍵のかかった部屋(自分だけの部屋)が不可欠と説きました。それは経済的独立と知性・精神の自由を意味します。フランス革命の渦中に芽吹いたフェミニズムは、いうなれば革命の裏面史であるかのように「自由」を謳い、確かなひとつの成果を上げ、少しずつの遺伝子変異を遂げながら次代へとバトンを受け継いできたのです
「第二波フェミニズム」と呼ばれるフェミニズム史は、男性との対比のなかでつくり上げられた女性像から離れ、新たな女性の生き方へと向かう潮流となりました。嚆矢となったのは、フランスのシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』(1949年)。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という一節は有名で、今日のジェンダー論の根幹理論を説く重要な一冊です。そしてその14年後、アメリカでベティ・フリーダンが『新しい女性の創造』(1963年)を出版。女性のペニス願望を説いたフロイト理論に異を唱えます。そうして、ウーマン・リブ(女性解放運動)は燎原の火のごとく世界に広がっていったのでした。
ところが、このように世界的なムーブメントとなったフェミニズムですが、その後目覚ましい発展は見られず、実際、フェミニズムは第二波で完結しているとする意見もあります。確かに以降のフェミニズムは、前述のように思想域がやたらと広がって、リベラル・フェミニズム、ラディカル・フェミニズム、マルクス主義フェミニズム、ポスト・フェミニズム……と多様な形態を示し、もはや単一のイズムではくくれない混沌とした空気が感じられるようになります。
ではなぜ、フェミニズムが第二波以降混乱を呈したのか――。それはフロイト理論を打破し、さまざまなフェミニズムに関する著作が発表されたものの、その後はフェミニズムを真に女性のための理論として説明する充分な言葉が発せられていないから、なのかもしれません。
フェミニズムはもはや「女の思想」であることを超えている。女と男と世界の関係をつくり変えたい男や女たちがフェミニストと呼ばれるべきであり、だからフェミニストの男も女もいれば、反フェミニストの男や女もいる。「女は世界を救えるか」と問う前に、「わたしは世界を救えるか」(救う気があるのか)と男も女も、自分に問いかけてみるべきだろう。
(上野千鶴子『女は世界を救えるか』勁草書房/1986年)
これからのフェミニズムを考える上で、上野千鶴子のこの一文は示唆的と思わせます。現代フェミニズム以降、バックラッシュと呼ばれるアンチ・フェミニズム(ポスト・フェミニズム)が叫ばれましたが、もしかするとそれは時代的かつ知的な後退を示すひとつの象徴的な現象であったかもしれません。第一波・第二波ですべて語り尽くされたとされるフェミニズム。けれども現代の状況を見たとき、果たして本当にフェミニズムは、充分に成熟したのちに終了したといえるのでしょうか。
「ダイバーシティー!」と声高に叫ばれ、多様性が何よりも貴ばれる時代に入りました。個々は個々でそのどれもが「自由で特別な存在」であり、何人もその尊厳を冒すことはできません。性別もまた個性のひとつだとすれば、こうしたムーブメントのなかにフェミニズムも分け入って溶け込んで、個々に違う根を下ろしはじめているといえるのかもしれません。けれども、だからといって性差別自体が溶解したかといえばそんなことはなく、前時代的な性差は日常でいくらでも見かけます。それはなぜか。冒頭で語った「社会システム」のうち、性差につながる思想に基づいたシステムが、依然としてイズムに押し切られることなく跋扈しているからだと見ることもできます。ではもう一局――と、第四波フェミニズムを巻き起こそうにも、「個」が「性」を超える時代における闘いは、過去の数戦とはまったく異なる様相になるはずです。そういう意味でフェミニズムは、新たな形を模索すべき時局を迎えたのかもしれません。
真に女性のためのフェミニズム、それは女性の意識という範疇を超え、性差さえも超え、フェミニズムという名すら捨て、新時代の指標「――イズム」として生まれ変わった――。いつか歴史を振り返ったときに、そう語る日が来るのかもしれません。そしてその革命的な人権ムーブメントとともに列記される名は、もしかしたらいま作家を志しているあなたの名前になるのかもしれません。
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