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何かの本のなかで「形而上(けいじじょう)」という言葉に行き合ったことのある人は、少なからずいるものと想像します。なかには「ケイシカジョウ」などと勝手に読み飛ばして、それっきりという人もいるかもしれません。ではあらためて……とウィキペディアで検索しようものなら、哲学門外漢には意味不明の解説がぞろぞろ出てきて意識が朦朧としかねないのでお奨めはしません。そもそも作家になりたいと志抱く人に、学問としての哲学のガチな理解が必要かといえば、必ずしもそうではないとも考えられますので、しかつめらしくかまえるのは、少なくともここではナシといたしましょう。
簡単にいって「形而上」とは形を具えていないもののこと。一般的な理解としてはそれで充分です。そして「形而上学」とは、目に見えない世界の原理やそこに存在するものについて考察する学問のこと。つまり現世を彷徨う幽霊やら自然界の精霊やらは、形而上的な存在ということになります。が、おっと、先走らないでくださいよ。ホラー小説を書けというわけではありませんから。こう見えて当ブログは真面目な「本を書きたい」話が身上、そう短絡的なお話はいたしません。となると「形而上」という言葉の起源に触れないわけにはいきませんね。
それは古代ギリシアの哲学者アリストテレスに遡ります(ムム来たな……という感じでしょうか)。東方世界を制したアレクサンドロス大王の家庭教師にして、プラトンを師と仰いだアリストテレス。まさにスーパースター揃い踏みの感ありですが、飛び抜けた人材に事欠かず、さらには彼らの事績がいまなお鮮烈であるというのは、古代ギリシア世界がいかに豊穣であったかの証といえましょう。ともかくも形而上学とは、形がないからその存在がないとする考えに疑問をもち、「存在」の意味を探ろうとする学問として誕生したわけです。ちなみにこの考え方は、アリストテレスにとって、師・プラトンからの脱却を意味していました。ああ、なんと熾烈な古代ギリシアの知的世界!
「存在」にまつわる形而上学的考察については専門家に任せるとしますが、詩を書く・小説を書くという創作分野にあっても、目には映らない「存在」をテーマとして扱うことは重要かつ果敢かつ興味深い試みに違いありません。というわけで、まずは偉大なる先達の作品をサンプルに、「見えないもの」とはなんぞや? という問いからはじめてみましょう。
以前、当ブログ『宇宙は作家の心を磨く』の回でも取り上げた埴谷雄高『死霊』。作家島田雅彦が「サグラダ・ファミリア」のようと喩えたそれは、日本の形而上文学の金字塔といえます。では世界は――といえば、まずはヘルマン・ヘッセに目を向けたいところ。1919年にヘッセが名を伏せて発表した『デミアン』は、形而上小説であると同時に青春物語でもあります。青春といっても、若さ弾ける青々しい物語とはだいぶ趣を異にします。「デーモン」にその名の由来を譲り受けた少年デミアンが、まさしく「悪魔」を暗示するこの小説。ヘッセ自身本名使用を躊躇い変名で発表したのも頷ける“問題小説”でした。
私は、自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを生きてみようと欲したにすぎない。なぜそれがそんなに困難だったのか。
鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。
(ヘルマン・ヘッセ著/高橋健二訳『デミアン』新潮社/1951年)
魔術師になれなければ詩人になりたいと夢見ながら、家庭の方針で神学校進学を強いられ、自殺まで思い詰めついにドロップアウト、本屋の店員など職を転々としながら詩を書きつづけたヘッセ。『デミアン』は、そんなヘッセが『郷愁』『車輪の下』などの青春文学を経て、祖国と人生に失望した末に哲学的な思索へと向かっていく、その転換点とされる作品です。主人公の10歳の少年シンクレールは、ふとした嘘から悪童のいじめの標的になりますが、転校生のデミアンに救われます。といってデミアンは正義感に厚い少年というわけではなく、世界の明暗を見せるような言動でシンクレールを翻弄します。まるで目に見えるようでいて現実には存在しないような、不思議な雰囲気を発するデミアンとはいったい何者なのか。シンクレールの内面のメタ的要素からなるドッペルゲンガーのようでもあります。そんなデミアンから逃れて自己の道を探そうとするシンクレールは、いったいどこへ向かうのか――。
彼がいなくなってしまうやいなや、彼が言ったことはすべて、まったく信じられないように思われた。カインが気高い人間で、アベルが臆病者だなんて! カインのしるしが表彰だなんて! それは不合理で、神をけがすものであり、だいそれたことだった。そうだとすれば、神はどこにいるのか。
(同上)
弟アベルを殺し邪悪の刻印を押されたカイン(旧約聖書『創世記』)。ヘッセは、そのカインをデミアンの口から「気高い」と言わせました。悪徳か神聖か。少年の精神が形成されていく過程を追う物語は、哲学的ではあっても難解ではなく、思春期の心が孕むアンビバレントな矛盾と混乱のなかに、ひとつの答えの道筋を浮かび上がらせていきます。だからこそ『デミアン』は、形而上小説でありながら青春の物語として、いまの時代も屹立しているのです。
『ゴドーを待ちながら』という、のちの劇作家たちに大きな影響を与えたサミュエル・ベケットの戯曲があります。『ゴドー』には何も出てこない、そのくせ、ありとあらゆるものが現れてくる――。不条理劇と評された作品に、かつてこんな戯曲も小説もなかったと演劇界と文学界は騒然としました。
エストラゴンは、舞台中央まで戻って来て、舞台奥を眺める。
エストラゴン 悪くないな。(回れ右をすると、今度は舞台の端まで来て、観客の方を向き)いい眺めだ。(ヴラジーミルの方を振り向いて)さあ、もう行こう。
ヴラジーミル だめだよ。
エストラゴン なぜさ?
ヴラジーミル ゴドーを待つんだ。
エストラゴン ああそうか。(間)確かにここなんだろうな?
ヴラジーミル 何が?
エストラゴン 待ち合わせさ。
ヴラジーミル 木の前だって言っていたからな。(二人とも木を見る)ほかにあるかい?
(サミュエル・ベケット著/安堂信也・高橋康也訳『ゴドーを待ちながら』白水社/2013年)
ふたりの農夫は、延々「ゴドー」を待ちつづけます。しかしいつまで経っても姿を現しません。自分たちも正体のわからぬ「ゴドー」を待ちながら、ふたりのあいだではひたすら不毛な会話が交わされるばかり。そこまでして待つ相手「ゴドー」とはいったい誰なのか、何かをただ待つという行為からは何かが生まれるのか――。『ゴドーを待ちながら』にはその答えがありません。中心となるテーマすら見えてきません。けれど、「見えない」ということは必ずしも「無」ではないと、このわずか二幕の舞台はそう教えるのでした。
「見えないもの」に人は深遠さを見るのかもしれません。あるいは果てしなくカラッポであったとしても。さしたる事件も起きない、話の筋らしき筋もない『ゴドーを待ちながら』が、なぜこれほど注目を集め世界各地で再演を重ねるに至っているのか。低次の論理ではとうてい説明のつかないその事実は、目には見えないものの存在的不可思議さと、見えないものについて考えることに、本来、人がどれほど惹きつけられるかということを証明しているようです。
小説を書きたい、詩人になりたいという人が、仮に「見えないもの」について考え創作を試みようとしたとき、やはり求められるのは、形而上なる存在がいかに私たちのふだんの生活に密接しているかを知ることです。そして、私たち自身のささやかな運命を左右する“暮らしのなかの形而上”を見出だし、それを作品の設定や作中の人物に投影することです。哲学用語を並べた学問的理解を深めることに特段害はないはずですが、その初手で「うわッ哲学、うわわムツカシイ……」と形而上という語をどこか遠い存在のように感じてしまうくらいなら、アカデミックな知識を無理に詰め込む必要はないのでしょう。
必要なのは――もちろん想像力と創造力。夜目も利かない真の闇にあなたは何を見ますか? 大人であるあなたにはただの暗がりにしか思えないかもしれません。けれどたいていの子どもはそこに恐怖を覚えます。その心理を丁寧に探れば、それは単純にオバケがいそうという子ども染みた想像がもたらす恐怖感のみならず、人間存在の何かもっと深いところに根差す原初的な体験に通じているようにも思えます。見えていないものに向かって目を凝らしてみてください。「見えないもの」に目を凝らし、探る――それこそは、あなたの創作物を深化させる形而上的思考の第一歩となるはずです。
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