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クリスマス物語が“スペシャル”な理由

2018年12月07日 【小説を書く】

大ネタ「クリスマス物語」を書く意味

国民的な一大イベント、イエス・キリストの降誕祭「クリスマス」。キリスト教徒であろうがなかろうが、何ごとかを胸に期し、人々はこの日を特別な日としてカレンダーに印します。昨今ではハロウィンも年間行事として急成長していますが、まだまだクリスマスの牙城に迫ることはなさそうです。

さて、日本でのクリスマスの歴史は、当然ですが宣教師渡来時にはじまります。明治になると実業家や貴族の外遊組がクリスマスツリーを自宅に飾り、1900年(明治33年)、銀座で明治屋がツリーを店頭装飾に用いたことがきっかけで俄然注目されようになったといいます。時代が昭和になるとクリスマスはより一般化され、創作・芸術・芸能といったさまざまな分野において、モチーフや素材として広く取り入れられるようになりました。クリスマスならではのスペシャル感の演出を「クリスマス商法」と切り捨てることは簡単ですが、そうしたコマーシャルの資本なくして、日本における今日的なクリスマスのブランディングは叶わなかったのは事実でしょう。“ぼっちさん”的には、たかがクリスマスと矮小化して捉えたいところかもしれませんが、やはり多くの国民にとっては、されどクリスマス。作家志望者であれば、おいそれと無視できないテーマであることは論を俟ちません。

とはいえ、そこはやはりクリスマス。ネタとしては先人の手垢だらけです。バタークリームの小さなケーキに目を輝かせた昭和の小童が消え失せたように、いまのご時世、クリスマスストーリーを書けば人が群がるわけではございません。大ネタな分「クリスマス」に挑戦しようというのなら、それなりの熟考と覚悟が求められるのです。とここで早くも怯んで「だったらいいよ、日本人だしさ――」などと時代錯誤な尻込みを見せる前に、秤にかけるべきコトもあります。

そう、“クリスマスもの”は当たるとデカい。なぜか? だってクリマスは年に1回やってきますからね、ひとたびその巡りの波に乗るや、年1でリバイバルが暦のほうからやってきてくれるのです。音楽でいえば、ジョージ・マイケル率いるワム(Wham!)の『Last Christmas』を耳にしない年はありますか? マライア・キャリー『All I Want for Christmas Is You』、山下達郎『クリスマスイブ』、松任谷由実『恋人がサンタクロース』、BoA『メリクリ』……これら懐かしの楽曲が12月だけで如何ほどの印税を稼ぎ出しているのか、そのことを想像してみましょう。加えてギフトが右へ左へ行き交うシーズン。この時期にうってつけの絵本で多少でも名が売れようものなら、あとはクリスマスが自動的に大なり小なりの当たりくじを運んできてくれるわけですよ。とまあ、やや下世話なお話をしてみましたが、そうと聞いては宝くじのような“待ち”の姿勢ではなく、あくまでも狙いに行くぞ! との挑戦の意志をもってクリスマス物語の創作に備えておくのも、あながち無駄ではないと思えませんか?

王道的名作にふさわしい鉄の教え

クリスマス物語といってまず思い浮かぶのは、定番的発想、すなわち「奇跡」や「不思議」の要素を盛り込んだ物語。それが断固たる王道クリスマス路線といったところでしょうか。このグループの代表格といえば、チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』が一も二もなく挙がりますが、腐ってもディケンズ、この人口に膾炙したクリスマス古典には看過できない模範があります。見てみましょう。

聖降誕祭お目出とうなどと云って廻っている鈍児(どじ)どもはどいつもこいつもそいつのプディングの中へ一緒に煮込んで、心臓に柊(ひいらぎ)の棒を突き通して、地面に埋めてやるんだよ。是非そうしてやるとも!
(チャールズ・ディケンズ著/森田草平訳『クリスマス・カロル』岩波書店/1936年)

冷酷無比の強欲商人スクルージが、3人の幽霊に自分の過去・現在・未来を見せられた末に純真な心を取り戻していくという改心物語が発表されたのは1843年。ゴシック小説の流行と重なる当時にあって、幽霊をお伴に過去や未来を旅する発想自体はさほど斬新ではなかったかもしれません。では何が……というと、バン! と飛び出す絵本のごときインパクトを示すスクルージの存在がカギといえそうです。その登場シーンからしてとてつもなく厭らしく憎々しく、なのにどこか惹きつけられるところのある主人公スクルージ。スクルージ(Scrooge)という名は、「screw(ねじ込む)」「squeeze(搾り取る)」をアレンジしたといいます。そんな命名の由来もみごとにハマったこのキャラクターは、単に『クリスマス・キャロル』の主人公を演じただけでなく、同作を伝説化、ポピュラー化した立役者でもありました。

こちらもひとつの“奇跡”を描く名作、オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』は、寓意(ある意味を、直接には表さず、別の物事に託して表すこと。また、その意味。――出典:デジタル大辞泉)について考えるのに格好のテキストです。だいたい、いまどきは一般小説に寓意などお呼びでないとばかりの風潮も窺えますが、一方で、新たな力強い寓意が生まれていないから、相も変わらぬ古典童話なんぞが、納屋の奥から引っ張り出されるのではないかと勘繰りたくもなります。『賢者の贈り物』の、愛情深い若夫婦の贈り物を巡る行き違いの物語は、東方の三博士がイエスに贈り物を捧げたという新約聖書の記述を下敷きにしています。が、そこはやはりオー・ヘンリーの解釈と創意の面目躍如。簡潔にして優れた着想と、精巧なパズルさながらの構成が読み手をぐいぐい引き込みます。短編の名手の名に恥じないその洗練ぶりは、児童向けの絵本などさまざまなリメイク版にも伺えますので、ぜひ一度手に取ってみることをお奨めします。

寓意といえば、クリスマスに後ろ足で砂をかけるようなシニカルな物語もあります。アンデルセン童話『もみの木』の主人公はご存じ「もみの木」。クリスマスの華やかな舞台で燦然と輝く主役となることを夢見つつ、自分の小ささに失望していましたが、大人になって立派に生長し、クリスマスツリーとして売られ大張り切りの有頂天。ところがクリスマスが終わるとあっけなく薪にされ燃やされて……。なんともいえないペシミズム漂う物語は、アンデルセンならではの陰翳ある思想を覗かせます。こうしたペシミスティックなどんでん返しの顛末は、さまざまなストーリーテリングに活かすことができるでしょう。

「クリスマス」を舞台背景に取り入れるアドバンテージ

クリスマスを、メインモチーフではなく遠景に退かせることで高い効果が上がることもあります。背景としてごくさりげなくクリスマスを描き込んだエーリッヒ・ケストナーの『飛ぶ教室』は、時代を超えた名作と呼ぶにふさわしい物語。寄宿学校生5人組が成長していく姿を、クリスマス前の数日間のなかに描いています。主役はあくまでも生徒たち。クリスマスは、少年時代の純粋な一幕を美しく照らし出す間接照明といったところでしょうか。

ケストナーの感動作とはだいぶ趣が異なりますが、クリスマスを背景効果として用いた一作としては、レイモンド・カーヴァーの『他人の身になってみること』も挙げたいところ。偏屈な作家とその妻がふと以前の家主を訪れたクリスマスの一夜を描いていて、元家主から元店子へ文句やら不満やら噴出するこの物語は、クリスマスの祝祭ムードを黙殺するかのような不可解で不穏な空気感に満ちています。

12月に入ると街や歩く人々の装いがどこか華やぐように、クリスマスシーズン、ホリデイシーズンというだけで気分は アガるものです。上の2例が示すのは、そうした空気を作中にももち込めるということです。作品の舞台設定をクリスマスに合わせてみれば、読み手の気分はやはりその時期にふさわしいものにセットされると。その初期状態を、よりドライブをかけて乗せていくのか、あるいは逆にいい意味で裏切っていくのか、作品に任されるのはその舵取りだけとなります。そんな、作品の本筋がはじまる前に読者心理の地均しが終っているというアドバンテージ。我らが太宰もその効用をよくよく知っていたようです。

 紳士は、ふいと私の視線をたどって、そうして、私と同様にしばらく屋台の外の人の流れを眺め、だしぬけに大声で、
「ハロー、メリイ、クリスマアス。」
 と叫んだ。アメリカの兵士が歩いているのだ。
 何というわけもなく、私は紳士のその諧ぎゃくにだけは噴き出した。
 呼びかけられた兵士は、とんでもないというような顔をして首を振り、大股で歩み去る。
「この、うなぎも食べちゃおうか。」
 私はまんなかに取り残されてあるうなぎの皿に箸をつける。
「ええ。」
「半分ずつ。」
 東京は相変らず。以前と少しも変らない。
(太宰治『メリイクリスマス』/『太宰治全集8』所収/筑摩書房/1989年)

太宰治の短編『メリイクリスマス』は、クリスマスなどちっとも関係なさそうな話と見えて、実はどうしたってクリスマスじゃなきゃだめなんだ――というさじ加減がまさに絶妙な一作です。舞台は終戦の翌年の東京、故郷の津軽に家族ともども暮らす主人公が、久し振りに舞い戻った都会で“ある再会”を果たす物語です。再会の相手は少女。主人公はその少女の母と不思議な気安い関係をもっていたこともあり、母の近況を尋ねてみたところ、実は彼女が広島の空襲で亡くなっていたと知る一幕を描いています。ユーモアと哀傷を一刷毛一刷毛、薄く淡く塗り重ねるように太宰は描きます。

上に引いた「ハロー、メリイ、クリスマアス。」は、作品終幕、屋台の酔客が通りすがりのアメリカ人兵士にかけたひと言です。実はこのシーンまで主人公は、酔った紳士が繰り返す詰まらぬ冗談をひたすら雑音として聞き流していたのですが、「メリイ、クリスマアス」だけにはつい噴き出してしまいます。過去も悲しみも一瞬弾けて、変わりのない日常が戻ってくるような、そんな清々しさも漂うラストシーンです。そうした読み味を残すためには、呪詛や嘲弄の思いから出るひと言では使いものになりません。気の利いた挨拶のような言葉……、ただの酔客がアメリカ兵に投げかける必然性……。その文脈上に必要な設定として、太宰はクリスマスを用意したのだと考えられます。本作の冒頭部で、太宰はこう書いています。

この都会は相変らずです。馬鹿は死ななきゃ、なおらないというような感じです。

ついこのあいだまで敵であった憎き兵士に、まるで乙な挨拶でもするかのように「ハロー、メリイ、クリスマアス。」と声をかける紳士は、この冒頭部に書かれるマヌケな「東京」を体現する存在でもあります。しかしそんな展開をしても作品が妙にシニカルにならず終えられているのは、読後の残像にクリスマスシーズンの都会の喧噪が谺しているからかもしれません。

世界の醜い現実の姿があるから、奇跡や希望や純真さが美しく描かれる。相も変わらぬ日常のなかだからこそ、ほんのわずかな非日常が鮮やかに映し出される。クリスマスとは、それら奇跡や非日常に光を当て、そこに“真実”を浮かび上がらせる仕様・設備の整った特殊装置のようなものかもしれません。大仕掛けである分、使いこなすにもスキルが求められるわけですが、使いでのある道具・素材であることは間違いありません。その設定がどんなに陳腐であろうと、クリスマスの舞台造作をもった物語には子どもも大人も心躍らされるのは確かですから。つまるところ、書くしかない!――というわけなのです。

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