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「はたらけど はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」という有名な歌を遺して、おそらく後世の数多の人にじっと手を見させたであろう歌人、石川啄木。窮乏のうちに夭折した、今日比類ない光彩を放つ歌人ですが、実は甘ったれで見栄っ張りで弱虫ではなかったか――と思わせるフシがあります。夢をみては挫折し、自信満々であるかと思うとヘコんで、自ら望んだ女性と結ばれたのにろくに顧みず、何ひとつ思うに任せないまま、家族をもその運命に巻き込んで26歳で世を去った男。それが啄木です。
ただし、啄木が惰眠を貪り手をこまねいていたかといえば、そんなことは一度たりとありませんでした。むしろその動きは常に慌ただしく、上京すること4回、その度に失望して故郷へ戻り、教職に情熱を燃やし、北海道へ渡って新聞社を転々とし、やはり東京しかないと最後の上京を果たし……ついに病に斃れます。失意の連続であった10年にも満たないその年月、啄木は世に出ようと確かに力を尽くしていたのです。
啄木の研究者や短歌の熟達者は、彼の歌は際立った巧さや独創性があるわけではない、ともいいます。にもかかわらず、魂にとりつくかのような、ひりついた切実感があるのだ――と。庶民の実感的な心情に響くその啄木ならではの情緒性は、力尽きるまで遮二無二奔走した10年の歳月によって獲得されたものと断言できます。そんな彼の日々を、掻い摘んで覗いてみましょう。
1886年(明治19年)、石川一(のちの啄木)は、岩手県の日戸村(現・盛岡市日戸)に生まれます。中学時代、終生の友となる金田一京助(言語学者・民俗学者)と出会い、与謝野鉄幹主幹の『明星』に触れてたちまち傾倒し、金田一らの影響もあって文学の道を志すようになったのはごく自然な成り行きでした。次に挙げるのは、現存する啄木作品のなかでもっとも古いといわれている中学時代に詠んだ歌です。
花ひとつ
さけて流れてまたあひて
白くなりたる
夕ぐれの夢
(1901年・明治34年)
初々しい内面風景を思わせるこの歌を詠んでから、1年あまりあとの1902年(明治35年)、最初の上京を果たした17歳の啄木は、鉄幹率いる新詩社を訪ねて同人となります。病に襲われ帰郷するも、走り出した少年の文学への夢は抑え難く、ついに出版に漕ぎつけた詩集『あこがれ』(1905・明治38)には、上田敏の序詞と鉄幹の跋文が寄せられました。
(前略)
日は既に山に沈みて
たそがれの薄影(うすかげ)重く、
せはしげに樹々をめぐりし
啄木鳥(きつつき)は、こ度(たび)は近く、
わが凭(よ)れる楢の老樹(おいき)の
幹に来て、今日のをはりを
いと高く髄(ずゐ)に刻みぬ。
(『枯林』/『あこがれ』所収/角川書店/1999年 ルビは引用者による)
こうして自信満々で出版した処女作品集でしたが、その期待は裏切られることになります。まったく売れなかったのです。わずかに注目した同時代の詩人らだけが、蒲原有明(かんばらありあけ)、薄田泣菫(すすきだきゅうきん)といった象徴主義の詩人を模倣する啄木の巧さを見るばかりでした。失意の啄木は同年、同郷の堀合節子と結婚、盛岡で教職に就き、合間に上京して触発され小説などを書いてみますが、いっかな芽が出ません。次に啄木が目を向けたのは北海道でした。教職を1年足らずで辞して北の地に渡り、家族も呼び寄せ、およそ1年のあいだ道内を転々としますが、どうにも活路は開かれません。絶望に次ぐ絶望、もはや退くことなど考えられなかったのでしょうが、こと文学に関しては妥協を許す姿勢はまったくありませんでした。そして啄木は再び東京行きを決意します。
海氷る御国のはてまでも流れあるき候ふ末、いかにしても今一度、是非今一度、東京に出て自らの文学的運命を極度まで試験せねばと決心し、矢も楯もたまらず、(略)単身緑の都に入り候ふ
(森鴎外宛書簡・明治41年5月7日)
1908年(明治41年)、不退転の覚悟で臨んだ最後の東京生活がはじまります。初上京から6年が経ち、鉄幹の新詩社は衰退し、東京の詩壇は様変わりしていました。生活苦に喘いでいた啄木は、実入りがよいと踏んで、またも小説に挑戦するも認められません。借金は膨らみ、日記に自殺への願望を記し、体調の悪化もあったであろう啄木が、いよいよ追い詰められた末に辿り着いたのが、歌でした。のちに知られる歌の数々は、この凄まじい窮乏生活のなかから生まれてきたのです。
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
頬(ほ)につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず
いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ
(『一握の砂』/『一握の砂・悲しき玩具』所収/新潮社/1959年 ルビは引用者による)
その当時、どうにか東京朝日新聞の校正係の職を得ていた啄木でしたが、文学における状況はおろか生活環境すら上向くことはなく、どん底生活に耐えかねついに妻・節子が帰郷すると、動揺した啄木の胸には社会へのどす黒い怒りが渦巻いてきます。時まさに社会主義者・無政府主義者検挙の嵐が吹き荒れ、大逆事件(明治天皇の暗殺を企てたとした幸徳秋水らが処刑された事件)が起きた1910年(明治43年)、啄木は『時代閉塞の現状』という一文を発表しこの歴史的事件を考察しています。その年の12月、彼の第一歌集『一握の砂』が出版されました。
やや遠き ものに思ひしテロリストの
悲しき心も
近づく日のあり
呼吸すれば、
胸の中(うち)にて鳴る音あり。
凩(こがらし)よりもさびしきその音!
眼閉づれど、
心にうかぶ何もなし。
さびしくも、また、眼をあけるかな。
(『悲しき玩具』/同上)
明治という時代の終焉の年、自己を悼み、生活に押し潰され、社会への怒りを燃やした啄木は、肺結核によりついに26年の生涯を閉じます。第二歌集『悲しき玩具』は、啄木の死後、盟友で歌人の土岐善麿(哀果)が遺稿を集めて出版しました。そこには、死期を悟った啄木が最後に見ようとした風景が浮かび上がってくるようです。それは『一握の砂』のなかでも「かにかくに 渋民村は 恋しかり おもひでの山 おもひでの川」と詠われた、挫折しては戻っていった故郷の風景、歌人が心身を休める場所でした。
己(おの)が名をほのかに呼びて
涙せし
十四の春にかへる術(すべ)なし
(『一握の砂』/同上)
挫折の苦い汁を飲みつづけた若き歌人は、10年という濃密な月日を生き切った宿命の歌人でもありました。「己が名をほのかに呼びて 涙せし」と、繊細な時代を懐かしんだ啄木。その絶望に打ちひしがれた心は、一篇の物語のような歌景を映し出して、傷つき疲弊した後世の読者の胸を震わせました。「かへる術なし」とは、単に時間的・物理的な不可能性ではなく、現実との闘いに痛めつけられた心が純真さを取り戻すことはできない――という悲しみに向けられた心境であったのかもしれません。『一握の砂』と『悲しき玩具』に収録されたおよそ800首の歌は、唯一無二の歌人、石川啄木の魂の軌跡を教えてくれます。映像的といわれる啄木の歌が想起させてくれるのは、翳りある哀切な風景。その画をふんだんに見せてくれる歌集は、短歌はもちろん詩を書く者にも、小説など物語ある作品を書きたい者にも、格好のテキストとなってくれることでしょう。
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