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大雑把にいってしまうと、ちゃんとした文章を書くのに必要なのは、中学までに習った国語文法知識のほか「語彙」と「言語感覚」、これだけです。したがって「ちゃんとした」から「優れた」に格上げされる文章を書ける人というのは、このふたつが「豊かな語彙」と「鋭い言語感覚」にレベルアップされているのです。
「語彙」と「言語感覚」。もの書きになりたいと思う者ならば、どちらも喉から手が出るほど欲しい能力です。このうち「語彙」に関しては、単純に量が求められる類のものですから、本を読み勉強しさえすれば、おのずと蓄積する誰もが手にできる能力ともいえます。いっぽう「言語感覚」となると話はちょっと変わってきます。忍者が修業で気配に鋭敏になっていくように、訓練により研ぎ澄まされていくのが「感覚」なのだとすれば、それを磨くにはやはり、幾分前のめりな努力と特殊なテキストを要するわけです。
では、言語に対する感覚はどのようにしたら研ぎ澄まされるのか。それは、感性に優れた文章を“感じていく”ということに尽きます。できるだけ多く、あらゆるジャンルのさまざまな個性の、優れた作品に触れること。それらを量産する言語感覚に長けたプロといえば、作家を筆頭に、編集者、コピーライターなどが挙げられるでしょうか。このなかでもとりわけミニマムなのがコピーライター。句点を含めたった4文字「生きろ。」(映画『もののけ姫』のコピー/by糸井重里)を「表現」にまで昇華させる言葉のマジシャンです。文学とは直接関わりのない分野ではありますが、物語を彩る美文・名文とはカラーの異なる広告コピーには、何か新鮮な学びのエッセンスがありそうです。
いまでこそ珍しくはありませんが、かつてその先進的な感覚で世に衝撃を与えた広告がありました。それは従来の広告の役割を覆す、商品もなければ告知文もなく、いったい何を宣伝しているのかわからないという「イメージ広告」。ひとたび世を席巻するや、その芸術性とスタイリッシュさが国内外で高い評価を得たのです。時代は1970年代から1980年代にかけて、日本でコピーライターという職業が脚光を浴びはじめたのもこのころでした。
かざらない唇ほど美しい。
清らかな香りほど妖しい。
(『資生堂のクリエイティブワーク』求龍堂/1985年)
このふたつは、それぞれ1978年の資生堂の広告に付されたコピー。口紅の宣伝コピーなのに「飾らない」、香水を売るのに「清らか」という逆説的なフレーズを対比させた表現は、当時にあって凄まじいまでに斬新でした。どんな短文だとしても、句読点の有無や打ち方が大事な要素になることの好例でもあります。このコピーでは、短いフレーズにあえて「。」を打って言いきる調子を出すことで、より強烈なアピール効果を生んでいます。
不思議、大好き。
(『西武のクリエイティブワーク』リブロポート/1982年)
こちらは1981年の糸井重里による西武百貨店のコピー。2歳程度の幼児でも口にする助詞すら含まない二語文が、当時の社会性、そして詩人・堤清二が率いる西武百貨店が放つ独特の企業性とあいまって、字面をはるかに超える多彩な「不思議」のイメージを喚起します。このコピーを皮切りに、西武の広告快進撃がつづいた80年代。82年には米国の映画監督ウディ・アレンを起用した「おいしい生活。」のコピーが流行語にもなり、糸井は一躍時代の人となりました。これらのコピーが、右肩上がりの好景気只中にある時代とリンクしていた点も重要なポイントです。言葉は生きもの。ゆえに時代とリンクしない言語感覚では、その時代を生きる人々の心に刻まれる文章は生み出せないのです。
「方言」には“イントネーション”のほかに“何か”がある――作家志望者ならばそんな感知力をもちたいもの。「人生を語るのには、もう方言しか残っていない」と語ったのは劇作家の寺山修司でした。「もう」の一語に、寺山がその時代をどう判断したかが窺えます。彼自身は直すつもりがなかったという故郷の津軽弁。しかし寺山はしばしばそれを寺山バージョンと呼ぶべき言語に変容させて用いていたといいます。その方言の匂いを、匂いのしない文字から感じることができるでしょうか。
桃の木は 桃の言葉で 羨むや われら母子の 声の休暇
村境の 春や錆びたる 捨て車輪 ふるさとまとめて 花いちもんめ
(寺山修司『田園に死す』角川春樹事務所/2000年)
劇作家として名を上げる以前、若き日の寺山が夢中でつくっていたのは短歌でした。上の二首が標準語で詠まれたはずはありません。文字を目で追い、風景を脳裡に思い描くほどに、彼の郷里の言葉、故郷を思う朴訥な心そのままに詠まれた歌であると窺えます。そこに“方言の匂い”が嗅ぎとれるようにも感じられるわけですが、それこそが寺山修司の言語表現感覚。たとえば岩手出身の宮沢賢治の「暮れやらぬ 黄水晶(シトリン)のそらに 青みわびて 木は立てり あめ、まつすぐに降り」(『宮沢賢治全集3』筑摩書房/1997年)などの歌と比べてみると、その違いはいっそう明らかでしょう。
日本人ならば日本語が喋れて当たり前。日本語が喋れるなら、外国人より優れた日本語の文章が書けて当たり前……と思われますか? ウサギとカメの寓話を地で行くような実例があります。油断のならないカメ氏の名は、アーサー・ビナード。1990年に来日し日本語を学びはじめ、2001年に日本語で書いた第一詩集『釣り上げては』で中原中也賞を受賞した米国の詩人です。これはある意味、受賞を逃した同胞の詩人たちに同情せざるを得ない事件でした。
この一件が教えてくれるのは、“バイリンガル”ではなく“作家”になりたいと思う者が磨くべきは、語学力ではないということ。日本人が日本語の語学力を高めるというとわかりづらいかもしれませんが、要するに書く文章を逐語的に文法に照らし合わせる努力――といえるでしょうか。日本語に堪能になるために求められるそんな方法論も、言語の“芸術性を高めること”には寄与しないようなのです。
納豆大好きの親日家で、日本人を妻とするビナードの日本語は、もちろん驚くほど正確で流暢です。しかし、このケースに学ぶべきは、「だからビナードは受賞できたのだ」という発想から離れるべきだということなのです。ネイティブではないビナードには、日本語による言葉の選び方に、私たちと異なる思いがけない視点があったものと想像します。つまり彼が感じ選んだ日本語で綴った詩には、日本語に対する新たな向き合い方のヒントが散りばめられていたのではないかということです。
(前略)
だが オーサブル川には
すばしこいのが残る。
新しいナイロン製の胴長をはいて
ぼくが釣りに出ると 川上でも
川下でも ちらりと水面に現れて身をひるがえし
再び潜って 波紋をえがく―
食器棚や押し入れに
しまっておくものじゃない
記憶は ひんやりした流れの中に立って
糸を静かに投げ入れ 釣り上げては
流れの中へまた 放すがいい。
(アーサー・ビナード『釣り上げては』/『釣り上げては』所収/思潮社/2000年)
父に連れられた故郷の川での一幕をイメージした表題詩。言葉選びは衒いなく丁寧で、詩景には細やかな動きがあり現実感が具わっています。抽象的な詩情ではなく、まるでしっかりとしたメッセージを放つドキュメント、映像化された記憶のひとこまを見るような――。ひょっとすると、「しまう」(put away)、「投げ入れる」(throw into)、「放す」(release)といった日本語に、作者の英語感覚が働いているのかもしれません。「食器棚や押し入れ」と「川」が並ぶ着想に、はっとさせられます。どこに暮らそうが、日常の延長線上には自然があり、亡くしたはずの父さえいるかのよう。記憶や思い出と、実在する自分自身との距離を、言葉をもって自在に操ることに成功した一編です。
五感にぬめりつくような描写で性を表現した吉行淳之介は、短編の名手でもありました。氏は短編の結末について、すとんと落ちがついて終わるものはいけないとして、ではどういう落ちがよいのかを、すとんと落とさないよう注意し、「一回ギュッと締めて、パッと広がして終わらすということを心がける」。「さりとて、曖昧にぼかしてもいけない」。「終わってギュッと締めて、フワッと放してふくらます感じを出す。それはあくまでも明晰な広がりでなくちゃいけない」と語ったとか(中村明『センスをみがく文章上達事典 魅力ある文章を書く59のヒント』/ 東京堂出版/2005年)。言われればなるほどと頷ける、だけどやろうとしてもできない――作品を結ぶ際のそんな難解なポイントを、実践してみることの難しさを含め、正鵠を射た言語感覚で伝える例文のようです。
「視る・聴く・嗅ぐ・味わう・触れる」の五感と同じように、「言語感覚」も、置かれた環境や自己研鑽によって鋭く研ぎ澄まされていくもの。つまり“素質”を言い訳にできない努力の賜物なのです。調香師が香りを、杜氏が酒を極めていくように、作家の卵は言語感覚を磨くことで独自の文体に辿り着くはずです。作家になろうという夢の頂は、いまはまだ遠く高いところにあるのかもしれません。でも考えてみれば、ジャックと豆の木じゃあるまいし、そもそもそんな高いところへ一足飛びに行けるわけがないのです。まずは、はじめられることからスタートしていきましょう。文章をただ読むだけでなく、ふとした表現に立ち止まって、目を凝らし深く感じていくこと。その何が、文字を負う自分の目の動きを止めたのか、そこを考える習慣をつけることからはじめましょう。それが作家という目標に向かう確かな一歩になるはずです。
※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。
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