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人類が例外なくもつものといえば、それは親。クローンをさておけば、人には誰でも雌雄一対の生みの親があり、現実の関係や生死がどうあれ、親と子のあいだには否応もなく特別な絆が存在します。それゆえに根深い愛憎の情緒も生まれてくるといえます。こうした特異にして普遍的な関係ですから、もとより物語のなかに描かれないはずはありません。ところが、ちょっとした事件の末に親子愛の強さが証明されるようなベタな話に終始されると、果たして親子とはそんな単純か――とヘソが曲がり憮然となってしまうのもまた事実で、このテーマにはやはり、ひと筋縄ではいかない複雑にして深遠な何ごとかがありそうなのです。
世に親子の物語は数多ありますが、普遍的な答えを得られる機会は意外とありません。これほど普遍的な題材はないはずなのに、類型的であったり、ありふれた主張に首尾一貫していたり、リアリティに欠けていたり、掘り下げが不足していたり、またあるいは特殊性や衝撃性だけ突出させていたり……とどうも核心から逸れるきらいがあります。親子の情愛とは特別で、他の対象に向けられるそれとは完全に別種のものといえます。だからこそ、その深い本質に迫る物語があってよいものを、そうした要望に応える作品はごく少ない様子なのです。このテーマがもつ独特の難しさがそうさせるのかもしれませんが、この状況を好意的に捉えるとすれば、親子の物語、親子愛のテーマは、まだまだ深く考察、開拓する余地があり、創作の可能性も広がっていると見ることもできるわけです。
親子といえども、望まれ愛される間柄ばかりではありません。親の愛を与えられずに育った子どもは、どのような親になるか、どのような愛をもち得るのか――。『杏っ子』は、生後間もなく寺の貰い子となり、のちに作家となった主人公とその娘の物語。詩人の室生犀星が、自身の経験と心情をもとに描いた自伝的小説です。
親の声も肌も知らずに育った主人公ですから、親となった当初の感情は些か混乱しています。生まれたばかりの子をぐにゃぐにゃした臓物のようだと遠巻きにし、分析的な目で娘を観察しつづけますが、次第に、彼女が自分にとって最後の女であるような感覚を覚えはじめます。幾分まともな父性愛を抱いたことで、自分を苛めた寺の養母でさえ見直すような錯覚が起こってくる主人公。となると本作は、まともでない育ち方をした者が、親になる経験をとおして自分の欠落した部分を補い“まとも”になる、その過程を彫琢しているようにも見えてきます。娘はといえば、作家志望の青年に嫁ぐのですが、あちらでもこちらでも半人前な夫との結婚に破れて父のもとへ戻り、物語はそこで幕を閉じます。父娘の温かな絆を確かめ合ったわけではありません。ハッピーエンドともいえません。けれども、不器用な親子が素の欲求を投げ合い赦し合うかのような姿に、胸の奥を震わせる「親子の像」が見えてくるのです。
親子間のいざこざが週刊誌で報じられる際、かなり気軽に使われる「親子の愛憎」という言葉。愛と憎しみは背中合わせ……なんてフレーズも陳腐ですが、これがいかに無惨で慰撫を求めるものであるかを教える一冊があります。著者は、童話作家・エッセイストの佐野洋子。嫌い嫌われてきたという実母との関係を、エッセイ『シズコさん』のなかで飾ることなく明かしました。
母は人に質問したり子供の話を聞いたりしなかった。命令だけした。その指令が母の希望通りにならないと凶暴になった。
(佐野洋子『シズコさん』新潮社/2008年)
娘4歳。繋ごうとした手を、舌打ちされて振り払われた瞬間、母との対立関係ははじまります。子どもたちを顧みず、虚栄心の強かった母を好きだったことは一度もないと言いきる著者。そんな母が年老い、老人ホームに入居させたとき、著者は「母を金で捨てたとはっきり認識した」と語ります。なのにある日、思いがけず口を突いて出たのは「ごめんね、母さん」という言葉でした。それに「私のほうこそごめんなさい」と答える母。しかし、初めての母子らしいこの場面に接し、終わりよければすべてよし――と結論づけるのは単純過ぎます。人間とは、不可解で残酷で、けれどどこかしらに善良さをもつ生き物。自責の念と恨みから解放された著者の「母さん、呆けてくれて、ありがとう。神様、母さんを呆けさせてくれてありがとう」という言葉に、親子関係の底知れない深さが偲ばれるのです。
親が子をただ見守るしかできないことが、どれほど辛く、苦しく、痛ましいか。それを物語るのは、世界的にも著名なアルパインクライマー山野井泰史(妻の妙子も登山家)の父・山野井孝有が著した手記『いのち五分五分』です。命を危険にさらしながら山に登る息子夫妻とはまた別の形で、生と死とに真正面から向き合いつづけてきた親の心境を綴っています。
挑戦者の家族の不安と苦悩は世に出ることはない。これまでも多くの挑戦者がこの世から去った。その挑戦者の家族、特に母親の「不安と心配」は計り知れないものだ。私とかみさんが、泰史に対して、そして妙子が加わってから、お互いが「いのち」とどのように向き合ってきたかをできるだけ正確に記録しておくことは、多くの挑戦者の家族の思いでもあると考えられた。
(山野井孝有『いのち五分五分』山と渓谷社/2011年)
タイトルの「いのち五分五分」は、著者である父親自身と、山へ登る息子たちの命のどちらが先についえるか、著者の年齢が平均寿命に近づいたいまに至ってようやく「五分五分」の心境となった、という意味です。ということはつまり、それまでは6:4、7:3、8:2……の比率で、息子たちのほうが短命な人生で終わると覚悟しつづけねばならぬという正真正銘の生き地獄。我が子が自分の仕事、使命に向かっていくたび、その死に怯え、無事を祈りながら過ごす親の歳月とはどのようなものか、想像して余りあります。いつ失われるかもしれない子との関係のなかに通う思いとは、苛酷な環境のなかで浄化され残ったものように強く、そして純粋であるのかもしれません。
『セールスマンの死』は、かのマリリン・モンローを射止めた劇作家アーサー・ミラーのピュリッツァー賞受賞作。かつて腕利きセールスマンとして名を挙げた老いた男が、落魄れ、家庭にも問題を抱え、ついに自ら死を選ぶという、まさにそれきのうのニュースで見た……と思える現代日本にも馴染む物語です。この作品には、フロンティアの失われた資本主義社会で夢破れた男の悲劇、というような解説文が付され、まさしくそのとおりではあるのですが、実は子育ての物語としても重要視すべき要素が見て取れます。
「big」を随一とする兄の影響を受けながら育ち、大きな成功に魅せられがちな主人公は、スポーツに才能を発揮する息子にもその夢を見て、ことあるごとに輝かしい未来を思い描かせ、成績にあくせくするみみっちさを笑い飛ばします。そんな息子は結局スポーツでは鳴かず飛ばず、うだつの上がらぬ中年男になろうとも、父はその事実を認めることができず、次第に四面楚歌に追い込まれていきます。主人公は息子を深く愛していました。息子も父を慕っていました。その愛ゆえに、主人公は息子を不幸な抜き差しならない道に追い込んだともいえるでしょう。それはアーサー・ミラーが現代社会の一家庭に映し出した、ギリシア悲劇さながらのジレンマと哀れです。
吉行淳之介や遠藤周作らとともに「第三の新人」(戦後に登場した新人小説家群の第3世代。1953〜55年ごろ)と呼ばれた作家・庄野潤三は、家族の日常的風景を一貫して小説の主題としました。その筆は当初、何気ない毎日に潜む不意の罠を描き、やがてささやかな幸福を探求しはじめます。そして転機となったのが『夕べの雲』でした。
「ここにこんな谷間があって、日の暮れかかる頃にいつまでも子供たちが帰らないで、声ばかり聞こえて来たことを、先でどんな風に思い出すだろうか」
(庄野潤三『夕べの雲』講談社/1988年)
日常的でささやかな幸福であっても、それはいつまでもつづくものではない、形を変えいつか失われるかもしれないものであると、『夕べの雲』というタイトルが暗示します。子どもとのあいだに、濃密で率直な愛情が通うのはむしろ束の間、いましも消えていってしまう雲と同じく儚いもの――と知る眼が見つめるのが、子どもの声ばかりが聴こえる日暮れの風景なのでした。幸福とは儚いもの、人生の平穏にはそれが一瞬にして揺らぎかねない危うさがあり、親子の関係もまた同じなのだ――という無常さを受け入れた上で、静穏な明るさを描こうとする、それが庄野の真骨頂ではないかと思われます。
上にいくつもの例を挙げてみましたが、やはり親と子の関係の特異さとは、計り知れないものかもしれません。もっとも身近な存在であるのに、ある意味近づきようもなく隔たっている関係。生まれたときから成長を見つづけてきたのに、親にとって理解しきれない我が子。親の願いが子の幸福ではない状況はなぜ生じるのか。愛と憎しみはその裏にどんな感情を宿しているのか。心が遠く離れた親子は愛を取り戻せるのか。可能ならばどのようなときなのか。親と子は(父親だとしても)、分娩後も目に見えない臍の緒で繋がっているかのようです。伸縮自在で径も無限に変化するその管を使って、永遠に魂の交感を図っているかのようです。
親が知らないのが子、子が知らないのが親。自分たちの間柄や互いへの思いを明確に認識する機会ももたず、そのくせ雁字搦めな絆で結ばれている。それが親子です。人間の心や愛といったものを深く考える上でも、「親子」というフィルターはなかなか効果的に機能してくれるはず。作家を志すのだとすれば、修業の課題として俎上に載せない手はありません。「親子」――それは物語を書く筆にコシを与え、作品の味を一段も二段も深めてくれるテーマなのです。
※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。
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