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創作芸術の粋たる「小説」とは、つまりは虚構であり、あえて乱暴な言い方をすればつくり話です。だから、グッドルッキングのとある盟主の御曹司が、東大を蹴って米マサチューセッツ工科大学に入学、在学中に発明したタイムマシンをベースに起業して世界一の資産家となり、サウジアラビアの石油王の娘を娶り(めとり)――なんて話を気分よく一人称で書いてしまったっていいのです。実話ベースの小説ですら、作者の手で適宜加工され、事実とはかけ離れた結末に辿りつく作品が多いものです。逆にそれが小説の美学ともいえ、虚実曖昧なまま読者に提示されてしまったばかりに、モデルとなった人物が訴訟を起こすなどというケースも過去にはありました。その一件を受けて読者が著者に同情を寄せたかといえば、「表現の自由の是非」を論じるマスコミや文学界を越えた領域ではそういう動きは目立って見られませんでしたから、「ちゃんと小説化しなかったのがいけない」と世の多くの人々は思ったということなのでしょうか。
こうした考え方のもとでは、作者はどんな世界をも創作できる神のような存在であり、逆にいえば創造主としての仕事――絶対的な想像力を発揮すること――をまっとうすることが求められるともいえます。責任重大ですが、イマジネーションの翼を脳内にもつ方からすれば、なんと自由な世界なのでしょう。
ただし――とあれこれ申しあげる前に、ここで例文となるくだりをひとつ挙げてみましょう。舞台はひとむかし前の証券会社。タイトルは『バブル崩壊前夜』です。
いつもはJRの駅からバスを利用するのだが、月曜のきょうは道路が混むことを見越して地下鉄の最寄駅から歩いてオフィスに向かう。
坂を下ると、高層建築が決して珍しくない都心でも、ひと際目を引くインテリジェントビルが目に入る。初めてこの光景を見たときの衝撃はいまでも鮮やかに蘇る。
「ねえ、お宅のボス、きょうはまだなの?」
出社早々、同じ年の外債トレーダーの犬養咲がいきなり声をかけてきた。きょうも見るからに英国製とわかるテーラーメイドのスーツを、肩の位置も寸分の狂いなくかっちりと着こなしている。巷で話題のワンレン・ボディコンなるものは、小娘が身につけるファッションとでも言いたげな自信に満ちた装いだ。女の私から見てもサマになっている。
今年卒業の大卒女性たちが、男女雇用機会均等法の施行により、男性たちに混じって誇らしげに就職活動をする光景を見かけたが、その遥か以前に彼女は、優秀な男子学生を押しのけて大学新卒として紅一点、世界に名だたる外資系投資銀行に入社を許された名誉ある一期生だ。そこそこの日本企業などでは、帰国子女で東大卒の彼女を使いきれなかったであろうことは想像に難くない。彼女の優秀さは誰もが認めるところである。
「もうすぐ、来るころだと思いますけど」と無意識に敬語を使っている自分に気づく。
「そうかァ。あ、それはそうと、あなたってミュージカル好きだったわよね? 『オペラ座の怪人』は観た? アンドリュー・ロイド・ウェーバーの」
いつものことながら突拍子もない質問に面食らう。
「ま、まだ、ですけど、それが何か?」
「すごくおもしろいから観ておいて損はないわよ。私、ニューヨークでの初演の舞台観たけど、オープニングから凝った仕掛けが用意されていて、エキサイティングだったわ」
ニューヨークか……。次のバカンスの候補に入れておこう。
きょうは強気相場でいくぞ、とボスがトレードマークのエピのスーツケースを提げてこちらに向かってきた。ディーリングルームの雰囲気は一変する。ボサボサ頭に高価なスーツが台なしといった風采だが、モノの価値を見分ける能力は天性のものだ。なんせ、入社して初めてもらったボーナスで、骨董品や古い椅子を何点か蒐集し、それがいまや目の玉が飛び出るくらいの値をつけているという逸話が残るくらいだ。
いつもはヘラヘラしているくせに、仕掛けるときはまるで獲物を狙う猛獣そのものだ。きょうはどうやらそのときらしい。
外資系金融機関を舞台に、日本の二大証券会社の思惑が激突する。こうして何の前置きもなく、きょうも一日戦争がはじまる。
「89回債、売りたい!」
「DKB テンビリオン買い!」
前場が引け、ほっとひと息つきながら受話器を上げた。エクイティの泉ちゃんをランチに誘って、ゆうべのマハラジャでの成果を聞きだそうと――その瞬間
「おい、高塚、きょう新発国債の入札があるからいつもの段取り、わかってるな?」
ボスからいきなり命令が飛んできた。
これで楽しいランチはお預けになる。落胆しながら泉ちゃんにかけるはずだった電話を、バックオフィスの中山くんにかけてことの次第を伝える。運転手には社用車を地下駐車場にまわしてもらい、入札に備え30分前には大蔵省で待機できるように手配する。最後にカフェテリアにサンドイッチとコーヒーを注文し終わると、どういうわけだか、阪神が21年ぶりに優勝を果たした去年の試合の場面が頭に浮かんだ。
今年は広島に分があると諦めて、ホイットニー・ヒューストンの『Greatest Love Of All』のフレーズを意識的に口ずさんでみる。まったく――、タフじゃなきゃやってられない仕事だ。
証券会社を舞台にしたビジネス小説です。時代は、21年ぶりの阪神優勝の翌年、男女雇用機会均等法の施行、アンドリュー・ロイドのミュージカル『オペラ座の怪人』の初演といった情報から、1986年のバブル景気がはじまった年のようです。ほかにも当時を思い起こさせる懐かしい言葉がちりばめられており、時代の雰囲気をふんだんに演出しています。また、「89回債」「DKB」「エクイティ」といった証券業界特有の用語を交え、場の空気の醸成にもヌカリがありません。ひと癖ありそうな、しかし誰もがやり手の個性的なチームを紹介しつつ、始業時からの慌しく活気のある様子が巧く表現できているように思われます。
一見してみると、とくに問題のある箇所は見受けられません。ただ、よくよく細かく見ていくと、決定的な「間違い」を見つけることができます。それを、年表を横に並べ照合したうえでようやく見つかる、ちょっとした間違いと笑うことはできません。なぜならば、この手の間違いとは、小説の評価を絶対的に貶める重大な瑕疵だからです。
まず、舞台は1986年です。そこでいきなり躓く(つまずく)のは、冒頭の「JR」の記述。国鉄が民営化され地方ごとに分割されたJR各社が登場するのは、翌年の1987年を待たなければなりません。つまりこの物語のなかでは、「国鉄」「国電」といった呼称をあてるのが妥当なのです。次に、犬飼女史は『オペラ座の怪人』の初演をニューヨークで見たと言っていますが、サラ・ブライトマンを一躍有名にしたこのミュージカルの初演はロンドンです。さらに見ていくと、「国債の入札で大蔵省に待機」との記述がありますが、これは大蔵省ではなく日銀が正解なのです。例文から少し離れますが、2001年以降の作品であれば「大蔵省」は「財務省」に置き換わったりと、省庁関連の呼称の変更にも気を配らねばなりません。
創作の世界と現実の世界を、シームレスに行き来できる「小説」というジャンルにおいて、作品世界の創造主がどうしてまたこんな些末とも思える事実に従わねばならぬかというと、すべては作品のリアリティや信頼性を担保するためなのです。小説の自由さを究極まで求めたとして、現実世界における事実をあえて曲げることが許されるとします。しかしその場合には、100人の読者がいれば100人全員に「あえて」なのだと伝わる必要があります。そこが曖昧なまま、先の例文のように事実と異なることがさも事実かのように描かれてしまうと、知識のない読者はスルーしてくれるかもしれませんが、この時代や業界を知る読者であれば、相当に違和感を覚えシラケてしまうでしょう。
歴史小説など特定の時代を描く場合には、当然のこと時代考証が必要になりますし、医療関係など特殊な業界や職種を描く場合には、その事情についての徹底的な取材が必要になります。医療従事者から言わせると、病院を舞台にしたテレビドラマの誤謬(ごびゅう)たるや――ということはままあるようですが、映像のもつ圧倒的なリアリティは、視聴者の違和感すら平気で呑み込んでいくものなのかもしれません。
小説とは、読者の想像力が担う部分の大きい芸術です。その読者をシラケさせてしまっては、どんな世界観を展開しようと感情を注ぎ込んでもらうことはできません。迫真の世界を描き出すためには、周到な準備、正確な知識、そして何より事実に即そうという心構えが必要なのですね。小説の書き手は、創造主でありながら、いやそうであるからこそ、作品の細部にまできっちりと責任をもつ必要があるということです。小説の本の巻末に、膨大な参考文献が記載されているのを見たことがあるのではないでしょうか。そうした多数の文献から著者が抽出した「エキス」が、つまりはその小説ということなのです。神たる小説の作者も、楽ではありません。しかし、創作時のそうした辛苦を超えた先に見える景色が、それだけ格別だということ、これはおそらく事実なのでしょう。
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