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朝、小鳥の囀り(さえずり)で目覚めた
生まれたばかりのような、この清々しさ
さあ、
新しい一日が始まる
こんな短い詩を渡されたとします。そして、たとえばあなたが詩人になりたいと日々修練を積み、きょうもあしたも言葉を書き綴る――と仮定したとして、この詩をどう思われますか?
「詩ができました!」と照れながらも屈託なく期待満面で見せられれば、「ああ、ええ、詩……ですね」といろいろなことを頭に巡らせ、相手の顔と紙面を交互に見ては「一日の始まりの清々しさに溢れていますね」などと短評のひとつも付け加えざるを得ないでしょう。しかし果たして、これを本当に正々堂々「詩」と呼んでよいものか。言葉の連なりは例外なくすべて「詩」と称せるのか。うーん……と腕組みしつつ、さっそくこの「詩(のようなもの)」を検証してみましょう。
まず、「小鳥の囀りで目覚めた」とありますが、たとえば都心のどこか一室で小鳥の囀りなどが聞こえるものでしょうか。近ごろの遮音性に富んだマンションや戸建てならば、鳥の囀りが聞こえることはまずありません。では、本作の詩情にもマッチしそうなガラスもガタつく安アパートならばどうでしょう。それでもせいぜい、生ゴミを漁るカラスのダミ声が聞こえるのが関の山。つまり、小鳥の囀りを聞く――と書きたいならば、それにふさわしい情景描写が求められるところなのですが、本作においてはそれが皆無。ゆえに、まるでリアリティを欠いてしまっているのです。次の行「生まれたばかりのような」は、詩に欠かせない「比喩」になっているものの、あまりにありふれていてオリジナリティを見ることはできません。つづいて「清々しさ」ですが、一切のヒネリもなくストレートに心情を表現しています。結論として本作は、残念ながら「詩」と呼んで人さまに差し出すには、はなはだ“たしなみ”のない一品、ということになります。
私の耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ。
(ジャン・コクトー著・堀口大學訳『耳』/『月下の一群』所収/講談社/1996年)
芸術的多彩さを謳われた言葉の名手、ジャン・コクトーの名高い短詩です。わずか一行(改行されることも)のこの作品を、訳者堀口大學は、建築学的構造をもつ賞嘆すべき短詩、と評しました。堀口の言う“建築学的構造”とはいかなる意味なのでしょう。まず、「耳」を「貝の殻」にたとえた比喩がありますが、比喩云々と指摘するどころではなく、時空にたゆたうかのような世界がたちまち開けていく様には驚くばかり。砂浜で静かに波打たれる貝は「耳」と視覚的な重なりを見せ、母なる広大な海へとイメージは無限に広がっていきます。寄せては返す穏やかな波の音は、胎内の静穏を思い起こさせ、「懐かしむ」の一語が遠く優しい過去への遡行を促します。言葉の名手コクトーは、「のような」という直截の比喩手法や、「清々しい」といったストレートな心情表現など歯牙にもかけないのです。
名人のこの至芸から、詩を書き切磋琢磨するあなたは何を学ぶか。それは、イメージの飛翔、心の擬態とでも呼ぶべきもの。冒頭の詩(のようなもの)を、前掲コクトーの『耳』と見比べて、その差をまざまざと感じてみてください。小鳥の囀りに目覚めた朝に感じた生まれ変わったような清々しさを詠いたいならば、いっそ小鳥、あるいは風に舞う一枚の葉か、さなぎから生まれ出た小さな虫かにでもなってみるほかありません。「朝=清々しい時間」というありきたりな図式は捨て、別の世界を想像する――詩作には、そんな異次元に遊ぶような構想と醸成の工程が必要なのです。
27歳で夭折した19世紀の詩人、アルチュール・ランボーはいまなお詩世界のスーパースター。早熟な天才、反逆の詩人と呼ばれた彼は、ソネットなどの韻文が主体であったそれまでの詩の伝統をこともなく打ち壊しました。詩に親しむ者なら誰もが知る、詩心を掻き立て情熱を沸き立たせる一篇があります。その名も『永遠』。
また見つかった、
何が、――永遠が、
海と溶け合う太陽が。
(ランボオ著・小林秀雄訳『永遠』/『地獄の季節』所収/岩波書店/1970年)
『永遠』はもともと六聯からなる散文詩ではありますが、小林秀雄をはじめ、中原中也、金子光晴、堀口大學……と名だたる文学者たちがこぞって翻訳に挑み最も力を入れたのが、はじまりと終わりに繰り返されるこの一節でした。実際、この聯だけを味わうほうが果てしのない世界の広がりを感じられ、短詩として十二分に成立しているといってよいでしょう。
この詩は、先達の詩人ヴェルレーヌと同性愛関係にあったランボーが、さまざまな絶望にあえぎながら、彼と迎えた肉体と魂の融合(単に「セックス」というのでは軽すぎる)の絶頂を謳いあげたともいわれます。ですが、この三行のみを鑑賞するなら、注目すべきは「永遠」の詩境ではないでしょうか。涯(はて)のない時間や世界を表現するのに「永遠」は便利な語です。J-POPの頻出単語をピックアップして遊ぶWebサイトが多々ありますが、当然「永遠」もそのラインナップに鎮座していることでしょう。要するに、それくらい陳腐化されてしまっているということ。この言葉はあまりに容易に、短絡的に使われているといえます。遠い遥かな時間の連なりも、まだ見ぬ世界の神秘的な無限を空想するのにも、「永遠」の一語で表現して終わっては、「永遠」を描いているとはいえないでしょう。海と太陽が番い(つがい)ひとつに溶け合って去っていき、奇跡のようにまた現れる――その永遠なる巡りの感覚を、ランボーは肉体と魂をもって会得したのです。そこには、背徳と破壊を厭わぬ反逆の思想が横たわり、圧倒的な力で読む者を打ちのめします。
詩は長ければよいというものではありません。長くなればなるほど蛇足に陥るか、そうでなければ必ずどこかで破綻をきたすリスクを孕むことになります。ならば短い詩であれば簡単に書けるか――というと、そういうわけではありません。短ければ短いほど、つまり用いられる言葉が少ないほどに、詩情の核心周辺を綴ることになりますが、ストレートな表現手法を用いたところで、そのエッセンスを素手で掬い上げられるわけではないのです。その意味では、短い詩はいっそう詩語の精錬と研磨が必要となるわけで、詩作の鍛錬にはもってこいといえるかもしれません。
「入魂」の字面どおり、一句一行に魂の景色を入れ込むのが「詩」です。清々しい、悲しい、幸福だ……と、どストレートに気持ちを表現してみたり、比喩を取り入れるにしても、天にも昇る気持ちだ、暗闇で出口が見つからない……などと安易に終わっては、詩人としての道のりはまだまだ遠いといえましょう。よい詩を書きたいと心から思うならば、一句入魂の気魄(きはく)と、言葉の世界の芸術的無限を知らなければなりません。その真髄に触れられたときこそ、詩の世界への一歩を踏み出すことができるはずなのです。
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