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日々の生活に倦み、いつの間にか頭と心の働きが緩慢になっているとき、気づけば人は海など茫漠とした風景のなかに佇み、ピーヒョロロと頭上を舞うトンビを仰ぎ見て、ああ自分も鳥になって空を飛びたい、自由に、自由に……なんて思ったりするものです。ステレオタイプな行動ですが、でも実際、心身が疲弊しきっているときは、こうした救いのひとときは誰もに必要です。空を飛ぶことは、地上のあらゆるシガラミから解き放たれたまさに「自由」の代名詞。己の身体機能では実行不能な“飛行”という能力に対して、人間は古くから無限の憧れを抱いてきました。ギリシア神話のイカロスは蝋で固めた翼で空を飛び、もっと高くもっと高くと有頂天になったあまり、太陽に焼かれて地に墜ちてしまったのですから、ああ哀れ。身のほど知らずな愚かな人間よ……。
しかし待ってください。一考してみましょう。空を飛ぶ鳥は、本当に自由なのでしょうか。我が身の自由を噛み締め、日々“飛行”を満喫しているのでしょうか。そればっかりは鳥の囀りを翻訳する機器の誕生を待つほかないですが、まあふつうに考えて、生来備わる能力にいちいち感謝しないのは、霊長類に限らず鳥類だって変わらないのではないでしょうか。すると考えるべきはひとつ、冒頭に書いたような――茫漠とした風景のなかに佇み、ピーヒョロロと頭上を舞うトンビを仰ぎ見て、ああ自分も鳥になって空を飛びたい、自由に、自由に……なんて思ったり――する1シーンを作中に織り込んだとして、その筆致が果たして読む者の心を打つのか、ということ。人の心に訴えたい物語を書きたい作家志望者としては、ここは沈思する必要がありそうです。だって、「空を飛ぶ=自由」の発想で筆を進めるのでは、あまりに単純、凡庸過ぎるではありませんか。
出典はおぼろですが、ある女性作家のこんな体験談を読んだことがあります。アメリカを旅しているときのこと。空港で見知らぬビジネスマン風の男性からひとかたならぬ親切を受けた彼女は、お礼をしたいと申し出ます。すると彼はこう答えたそうです。では『かもめのジョナサン』という小説を、あなたの旅のお供にしてください。ぼくが心が震えるほど感動したこの本に、あなたも感動してくれたら何よりです――と。うーん、日本人男性の口からはまずもって出てきそうにない洒落た科白ですが、ともかく、かねてよりこの小説の評判を聞いていた女性作家は、彼の薦めどおり買い求め空の旅の供としました。そしてたちまち、彼と同じく、いえそれ以上に、国を越え人種を越えた感動のなか時を忘れたのでした。
しかしアメリカ人男性は、なぜ見ず知らずの異国の女性に『かもめのジョナサン』を薦めたのでしょう。心が震えるほど感動した――から? しかしちょっとぐらいの感動ではそこまでの話にはなりそうもありません。それにたいていの場合、読書体験で得た感動というのは、それを共有できる相手とだけ分かち合うか、でなければ自分の胸に大切に仕舞っておきたい種類の感動であるはずです。相手の不見識により、せっかくの感動を穢されることもままありますから。となると考えられるはひとつ。彼は、途方もなく、熱烈に感動していたのです。それは人に教えたい、分かち合いたい、そうせざるを得ないほどに、広々とした大きな感動だったのではないでしょうか。そう、まるで啓示を受けたかのように。ではその小説、1970年に初版刊行、数年後には大ベストセラーとなって世界を席巻した『かもめのジョナサン』とは、いったいどんな作品なのでしょう――。
「ぼくは自分が空でやれる事はなにか、やれない事はなにかってことを知りたいだけなんだ。ただそれだけのことさ」
(リチャード・バック著/五木寛之訳『かもめのジョナサン【完成版】』新潮社/2015年)
『かもめのジョナサン』は鳥の自由を描いた小説ではありません。“飛ぶこと”を生き方として、その追求を使命として、ひたすら飛びつづけたかもめの物語です。餌を捕って生きることに満足するかのような仲間のかもめを尻目に、いかにすれば、速く、強く飛べるかと試行錯誤を繰り返すジョナサンは、変わり者のかもめと非難され群れを追放されます。それでも彼は挫けず、立ち止まらず、ただ、より速く、より強くと挑戦しつづけます。そうして、志を同じくする仲間と出会って、さらにステージを上げ、後進にその技術を教える道を見出しながら、もっと速く、もっと強くと自分もさらに飛びつづけ、やがて姿を消し伝説となります。一羽のかもめであるそんなジョナサンの生き様が、世界中の人々の心を激しく打ったのです。読者はしかし、なぜこれほどまでに感動したのでしょうか。
『かもめのジョナサン』日本版訳者の五木寛之氏は、【完成版】の解説に「内面の世界の追求は、彼の目的ではない。『飛ぶ』『よりよく飛ぶ』ことのフィジカルな追求が、おのずと精神世界に彼をみちびいたのである」と記しています。『かもめのジョナサン』を読んだ仏教徒は、本書に仏の教義を見出しました。いっぽうキリスト教信者たちは、キリスト教の本義があると頷きました。『かもめのジョナサン』の作者リチャード・バックは飛行家でもあり、1970年に本書を発表、2012年に自家用機で飛行中大きな事故に遭って重傷を負い、これがきっかけで【完成版】に収められた第4章を執筆します。そこに描かれたのは、ジョナサンが伝説的存在となったその後のかもめたちの世界。伝説が独り歩きし、ジョナサンの教えが風化していく世界でした。大事故に遭って死を身近に感じたリチャード・バックは、第4章で何を伝えたかったのでしょうか。
リチャード・バックが創造した一羽のかもめジョナサンは、いつしか作者からも作品からも離れ、読者ひとりひとりの心裡のなかでみずから呼吸するキャラクターとなっていったようにも思えます。ひたすらに飛ぶことに生きたジョナサンは、無心です。それは、あらゆる宗教や哲学を超えたところにある境地、生きとし生ける者の無上の純粋な姿です。真似られるものでも競うものでもない、まっすぐな生き方だけが辿り着く姿です。「純粋」とは、邪念のないこと。ジョナサンの境地に至るにはヒトの人生は短すぎるのか、それとも――。
『かもめのジョナサン』は、たった一羽のかもめが、とても大きく、とても深い“何か”を教えてくれる物語です。おそらくは、いまの自分ではない何者かになろうともがく己の道半ばにある人にこそ、強く響く作品だといえるでしょう。その同志が一羽の純白なかもめであると。その設定がまた、ノイズの多い社会においては求道者の目になんともシンプルに映り、ただただ一点の目標だけを見定めること、原点に戻るということの大切さを説くようです。こうした作品に胸を打たれたら最後、人は矢も楯もたまらず人に薦めたくなるものなのかもしれません。 この物語には、作家になりたいと志を掲げる者が学ぶべきものがきっとあるはず。本を書きたい、書いてみたいと思うあなたならどう読み解くでしょうか。ひょっとするとそこには、小説を書く、物語を創造するための、この上なく純粋なテーマが現れてくるかもしれません。
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