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作家になりたいと切磋琢磨する方であれば、「純文学」というジャンルは耳に馴染みがあるはずです。「芥川賞」の名とセットで、文学界における正統派の印象も誰もが認めるところでしょう。ただ、エンタメが隆盛を極め、文学もまたコンテンツ産業のひとつと見なされる近ごろでは、純文学を志す作家の卵たちは幾分減ってきているのかもしれません。では、純文学が敬遠されるそのわけは? 難しい? 売れそうもない? 地味?――と理由はいろいろとあるのでしょう。確かに純文学系の文芸誌はセールス的には苦境に立たされているようですし、純文学はその芸術性の高さゆえに、崇高なものと見上げられつつもどこか絶滅危惧種的な扱いをされているフシがあリます。もちろん、作家志望者がどのジャンルでどんな作家を目指そうとそれは自由。純文学を脇に追いやってしまったっていいのだし、純文学と距離をおいて大成した作家だっていくらもいることでしょう。しかし拙速に動くにはよくよく注意したいものです。
そもそも「純文学」と「大衆文学」の境界線というのは極めて曖昧です。だって、どんな物語であろうと、登場するのは「人間」なんですから。童話やSFはその限りでないにせよ、アリやゾウリムシが主役を張るということはまずありません。深海に生息する謎多きダイオウグソクムシの神秘性を作品のモチーフとして扱うことがあっても、それどのように感じて、感じた主人公がどう変化するかを描いたとすれば、それはたちまち「人間」の物語になってしまうのです。つまり純文学やエンタメの違いなく、「物語」を書こうとすれば、すなわち人間心理への洞察が欠かせないということになります。登場人物の心理に読者が不審を感じれば、たちまちストーリーへの没入は滞り、骨肉のドラマであろうが波瀾万丈の冒険譚であろうが、ただのウソ臭い茶番劇と成り果てます。人間が描かれる限り、いかなる創作であろうとも、そこに純文学の精神やテーマ性を無視してよいということはないのです。
これは誰も否定できないと思いますが、人の心は当の本人であっても理解しがたい動きや反応を示すものです。あれ? なんだこの気持ちは……と自分自身でも測りかねて困惑することがありますよね。しかしそこに毎回引っかかっていては前に進めません。この困惑は、大袈裟にいえば社会的にドロップアウトするかどうかの分岐点。なので多くの常人は、平穏な日常生活の道から逸れてしまわぬよう、たいていはまあいいかとスルーすることになるわけです。が、作家を志す者にはそんな安易さは許されません。それもまたこの稼業の試練のひとつと思い、みずからをも困惑させる感情の根を掘り下げて人間の本質を突き詰める営為が、どれほどあなたの創作に豊かな実りをもたらすか――これを忘れずにいてください。そういうわけで今回は、人間の心理、感情の根を探るべくお題を挙げてみたいと思います。それすなわち「郷愁」です。
まずお尋ねしますが、「郷愁」とはどのような意味でしょう? おや、いま鼻でフッと笑いましたか? 郷愁? 故郷を思う気持ちに決まってるだろと。いえいえ、いつも言っているじゃないですか、作家になりたいなら、当たり前の答えに当たり前に飛びつくのは禁物なのです。この質問の回答が世間一般のなんとなくのイメージに終止するのであれば、郷愁をテーマとする小説は、おふくろ、いま帰ったよ! ああやっぱり故郷はいいなァ、久しぶりに一家そろったなァと、和気藹々食卓を囲むメロドラマを描いてめでたしめでたしと終わってしまいます。それではあまりに陳腐じゃありませんか?
優れた小説を書きたいと志すならば、人の思いがどこから来るのか、その根の在り処を突き止めなければなりません。さらにはその根を掘って、どこから発しているのか、形状はどのようなものかを知る必要があります。なぜ人は故郷を恋うるのか――を。ここで先に「解」を書いてしまうとすると、それは故郷というものが人間の純粋無垢な元始の記憶に結びついているから。そしてその記憶が、人間の感情を揺さぶるからなのです。換言すれば郷愁の念は、人間の本能、心理メカニズムの基盤に組み込まれたものといえます。そして郷愁が人の根源的な心理であるならば、「郷愁」溢れる作品を描くにあたって、必ずしも故郷を描く必要はないというわけです。
それはもう世相とか、暗いとか、絶望とかいうようなものではなかった。虚脱とか放心とかいうようなものでもなかった。
それは、いつどんな時代にも、どんな世相の時でも、大人にも子供にも男にも女にも、ふと覆いかぶさって来る得体の知れぬ異様な感覚であった。
人間というものが生きている限り、何の理由も原因もなく持たねばならぬ憂愁の感覚ではないだろうか。(中略)
再び階段を登って行ったとき、新吉は人間への郷愁にしびれるようになっていた。
(織田作之助著『郷愁』/『聴雨・蛍 織田作之助短篇集』所収/筑摩書房/2000年)
『夫婦善哉』が有名な織田作之助は、その名も『郷愁』という掌編小説を書いています。と題しながらも、いわゆる「故郷」と呼ぶものなどどこにも出てこないオダサク『郷愁』の主人公は、締め切りに追われ息も絶え絶えの作家。なんと薬物を入れながら己を覚醒させ原稿用紙と向き合っています。「世相」がテーマの作品を執筆中の主人公ですが、結局は結末を決めかね、ぐずぐずと自己省察を繰り返したのち、無理やりオチをつけて電車ではるばる中央郵便局へ駆け込みます。途中目にしたのが、夫からの不可解な電報に途方に暮れ、ぼんやりとなす術もなく駅で待ち惚ける女と、帰り道の地下道で眠る路上生活者の親子。ごろりと横になった父の傍ら、夜中に目を覚ましてきょとんとした表情を浮かべている幼児の眼を見て、作家は我知らず「憂愁の感覚」に打たれたのです。
この作品で対比されるのは、世相という社会の表立った様相と、人間の心の奥底にある郷愁という本能です。世相に結論を出し得なかった作家の胸に、反動ともいうべき勢いをもって人間への郷愁は雷のごとく発現しました。その感覚は、主人公を痲れ(しびれ)させるほどに激しかったのです。人はいつも世相に踊らされ、侃々諤々(かんかんがくがく)、一喜一憂、忙しい。世相こそが人形遣いのごとく人間世界を支配しているかのようです。しかし主人公は、そんな世相が人間本来の生の在り方とはいかに異分野のものであるかに思い至るのです。
なぜ人間を書こうともせずに、「世相」を書こうとしたのか、新吉ははげしい悔いを感じながら、しかしふと道が開けた明るい想いをゆすぶりながら、やがて帰りの電車に揺られていた。
(同上)
33歳で夭折した織田作之助。『郷愁』を発表したのは死の前年のこと。世相や人間世界というものを、どこか達観した眼差して見遣る彼の横顔が思い浮かびます。「郷愁」というテーマからは、こんな小説だって生まれ得るのです。
「郷愁」ということでいうと、当然ながら他ジャンルでもいくつもの好例を見出すことができます。ソ連生まれの映画監督アンドレイ・タルコフスキーは、祖国を見失った人間の姿を描く『ノスタルジア』を制作し高い評価を得ました。彼は郷愁(=ノスタルジア)について、「ロシア人がソ連国内を旅行した時には感じないが、ひとたび外国に旅行すると必ず強く襲いかかる感情で、死に至る病いに近いとさえ言える独特のもの」と表現しています。タルコフスキーはこの映画完成の翌年、祖国からの亡命を宣言したのでした。そうすることで郷愁をあたかも十字架のようにみずから背負った彼は、晩年その目に何を映していたのでしょうか。
郷愁というテーマひとつにしても、描くべきは在りし日の母の味噌汁の味ばかりではありません。その深い根からは、いくつもの異なる物語が生まれてくるのです。名作への道――それは人間心理を洞察するところからはじまります。山に登るのに初めから3合目を選ぶ人はいません。志は高く、というじゃありませんか。作家になるために“何か認められそうな作品”を書く、ではなく、どうせなら「名作」を目指しましょう。その険しくも実り多い豊穣の道を突き進むことで、作家としての一本道がいつしか太く切り拓かれ、ゆくゆくはそのど真ん中を邁進することになる――そう信じています。
※Amazonのアソシエイトとして、文芸社は適格販売により収入を得ています。
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